アルサフィ
霧が静かに流れる。
ガルドは片手剣を構えたまま、一歩も動かなかった。
背後ではリシアが懸命にベスの治療を続けている。
レオンは大剣を握り締め、子狼たちを睨みつけた。
アイラは弓を引き絞り、いつでも放てるよう照準を合わせる。
張り詰めた空気。
誰も口を開かなかった。
その時――
ドン……。
ドン……。
重い足音が霧の奥から響く。
子狼たちは一斉に道を開いた。
やがて姿を現したのは、ベスを連れ去った巨大な魔狼だった。
黄金の瞳は静かに灰鷹を見つめている。
「お前か。」
ガルドの低い声が響く。
「ベスを連れ去ったのは。」
魔狼は静かに頷いた。
「そうだ。」
その一言で、レオンが大剣を握り直す。
「この野郎!」
「待て。」
ガルドの一声で、レオンの足が止まる。
魔狼は逃げない。
牙を剥くこともしない。
ただ静かに立っていた。
「……戦う気はないのか。」
ガルドが問う。
魔狼は短く答える。
「ない。」
「なら、なぜこんな真似をした。」
しばらく沈黙が流れる。
魔狼はベスへ視線を向けた。
「その者が、継承者だからだ。」
灰鷹の全員が息をのむ。
「継承者……?」
聞き慣れない言葉だった。
ガルドだけが表情を変えない。
「詳しく話せ。」
魔狼はゆっくりと頷いた。
「この忘却の渓谷は、神代より受け継がれた試練の地。」
「我らは、その番人だ。」
レオンが眉をひそめる。
「試練だと?」
「こんなになるまで戦わせることがか!」
怒りを抑えきれない。
だが魔狼は静かに答える。
「子らは狩りを学ぶ。」
「継承者は、生きる術を学ぶ。」
「それが忘却の渓谷の掟だ。」
リシアは眠るベスを見つめ、小さく呟く。
「こんなの……試練なんかじゃありません。」
魔狼はその言葉を否定しなかった。
「人の理では、そう見えるだろう。」
「だが、継承者が歩む道は、人の理を超えている。」
静かな声だった。
そこに誇りも、言い訳もない。
ただ長い年月、使命を果たしてきた者の響きだけがあった。
ガルドは片手剣をゆっくりと下ろす。
「一つだけ聞く。」
「ベスは生きると分かっていたのか。」
魔狼は黄金の瞳を細めた。
「断言はできぬ。」
「だが、信じていた。」
「継承者ならば、この試練を越えると。」
レオンは悔しそうに拳を握る。
「もし死んでいたら!」
魔狼は静かに空を見上げた。
「ならば、その者は継承者ではなかった。」
その言葉に誰も返せない。
あまりにも厳しく。
あまりにも重い掟だった。
その時だった。
「……団長。」
かすかな声が響く。
全員が振り向く。
ベスがゆっくりと目を開いていた。
「ベス!」
リシアが涙ぐみながら笑う。
ガルドは安心したように息を吐いた。
「無茶をしやがって。」
ベスは力なく笑った。
「……すみません。」
魔狼はその姿を静かに見つめる。
そして、小さく頷いた。
「試練は終わった。」
風が吹く。
忘却の渓谷を包んでいた霧が、ゆっくりと晴れ始める。
その先に続く道は、これまで誰も足を踏み入れたことのない、神代の真実へ続く道だった。




