ラキドゥス
忘却の渓谷。
濃い霧の中で、ベスは白銀の剣を握り締めていた。
荒い呼吸。
震える足。
何度も押し寄せる子狼たちとの戦いで、体力は限界に近かった。
それでも剣だけは下ろさない。
目の前には、成狼が静かに立っている。
黄金の瞳がベスを見つめていた。
低く唸る。
その声を合図にするように、子狼たちが一斉に駆け出した。
「はぁぁぁっ!」
ベスは気力だけで剣を振るう。
一頭を退ける。
すぐに次の一頭。
さらに別の一頭。
休む暇はない。
息を整える間もなく、次々と襲いかかってくる。
「くっ……!」
肩で息をしながら後ろへ跳ぶ。
しかし着地した足がふらつく。
体勢が崩れた、その一瞬。
成狼が地を蹴った。
重い一撃。
ベスは剣で受け止める。
鈍い衝撃が全身へ走る。
踏みとどまろうとするが、力が足りない。
そのまま後方へ吹き飛ばされ、岩肌へ背中を打ちつけた。
「……っ!」
白銀の剣が地面へ転がる。
ベスは息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。
剣まであと少し。
手を伸ばす。
届かない。
もう一度。
指先が震える。
あと少しなのに届かない。
成狼は静かに近づいてくる。
子狼たちも円を描くように囲み始めた。
ベスは歯を食いしばる。
「まだ……。」
「まだ終われない。」
震える足で立ち上がる。
だが、一歩踏み出した瞬間、膝が崩れた。
視界が大きく揺れる。
呼吸も乱れ、身体は思うように動かない。
それでも前を向く。
「俺は……。」
「神を討つって……決めたんだ。」
かすれた声だった。
成狼は静かに前へ出る。
大きく前脚を振り上げた。
(ここまでか……。)
ベスはゆっくりと目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、燃える村ではなかった。
ガルドの厳しい背中。
レオンの笑顔。
アイラの呆れた表情。
リシアの優しい微笑み。
仲間たちとの旅の記憶だった。
その瞬間――
ヒュンッ!
一本の矢が霧を裂いた。
成狼の前へ突き刺さる。
「ベスーーーーッ!!」
渓谷中へ響く大きな声。
ベスはゆっくりと目を開く。
霧の向こうから、一人の男が一直線に成狼へ向かう。
ガルドだった。
「間に合えぇぇぇ!」
続いてレオンが飛び込み、子狼たちの間へ割って入る。
「ベスは俺たちが守る!」
岩場の上ではアイラが素早く弓を引き、正確な矢で子狼たちの動きをけん制する。
リシアは迷うことなくベスのもとへ駆け寄った。
「ベス!」
両手を重ねると、柔らかな光がベスを包み込む。
「本当に……よかった。」
涙をこらえながら微笑む。
ぼやける視界の中で、ベスも小さく笑った。
「……団長。」
「みんな……。」
その声は風に溶けるほど小さかった。
張り詰めていた緊張が解ける。
安心したように目を閉じると、そのまま静かに意識を手放した。
ガルドは大剣を構え、成狼を睨みつける。
「……ベスをここまで追い詰めたのは、お前たちか。」
成狼は答えない。
ただ静かに、その場に立ち続けていた。
霧の奥からは、ゆっくりと大きな足音が近づいてくる。
忘却の渓谷の主が、姿を現そうとしていた。




