アヴィオール
アルセリアを発って三日。
灰鷹は北東の山脈を越え、目的地である忘却の渓谷へ辿り着いた。
深く切り裂かれた谷は濃い霧に包まれ、昼なお薄暗い。
岩壁には風化した神代文字が刻まれ、谷底から吹き上がる風が不気味な唸り声のように響いていた。
「ここが……第二の封印の地。」
ベスは白銀の剣へ手を添える。
その柄が、一瞬だけ微かに温もりを帯びた気がした。
「全員、警戒を怠るな。」
ガルドの声に、一同は武器を構える。
先頭はベスとガルド。
左右をレオンが警戒し、後方ではアイラが弓に矢を番え、いつでも放てるよう構えている。
最後尾を歩くリシアは周囲へ目を配りながら、小さく呟いた。
「……静かすぎる。」
鳥の声も聞こえない。
風だけが霧を揺らしていた。
その時。
ガサッ。
前方の茂みが揺れる。
姿を現したのは、一匹の狼型の魔物。
灰色の毛並みに赤い瞳。
低く唸りながら、こちらを睨んでいる。
「一匹だけか?」
レオンが大剣を構える。
しかしガルドは首を振った。
「違う。」
「囲まれている。」
その直後だった。
ガサガサガサッ!!
周囲の茂みが一斉に揺れる。
十匹。
二十匹。
三十匹――。
霧の中から無数の魔狼が姿を現した。
「円陣を組め!」
ガルドの号令が飛ぶ。
最初の一匹が飛びかかる。
ベスが白銀の剣で斬り払う。
その隙を狙って二匹目が襲う。
「させない!」
アイラの矢が風を裂いた。
矢は魔狼の肩へ突き刺さり、勢いを殺す。
続けて二射、三射。
狙いは正確だった。
しかし倒しても倒しても、霧の奥から新たな魔狼が姿を現す。
「数が多すぎる!」
レオンが大剣を振るい、数匹まとめて吹き飛ばす。
それでも群れは怯まない。
まるで誰かの命令を受けているように、波のような連携で襲い続けてくる。
リシアは負傷した兵士へ治癒術を施しながら叫ぶ。
「無理をしないで!」
その時だった。
ドォォォォン……。
谷全体が震えた。
魔狼たちが一斉に後退し、一筋の道を開ける。
霧の奥から現れたのは、群れの何倍もの巨体を持つ一頭の魔狼だった。
銀灰色の毛並み。
鋭い黄金の瞳。
その姿だけで周囲の空気が張り詰める。
「群れの主……!」
ガルドが剣を握り直す。
巨大な魔狼は誰にも飛びかからない。
ただ静かに、ベスを見つめていた。
いや――。
正確には。
ベスの腰にある白銀の剣を。
黄金の瞳が、わずかに揺れる。
「……?」
ベスは違和感を覚えた。
敵意だけではない。
何かを確かめるような視線だった。
次の瞬間。
巨大な魔狼が地面を蹴った。
「来るぞ!」
ガルドが叫ぶ。
しかし、その突進は仲間ではなくベスだけを狙っていた。
「ベス!」
ガルドが割って入ろうとする。
だが無数の魔狼が立ちはだかる。
「邪魔だ!」
レオンが薙ぎ払っても、次々と新たな魔狼が飛びかかる。
「ベス!」
アイラは矢を放つ。
だが巨大な魔狼は身をひねり、すべてかわしてしまう。
ベスは白銀の剣を構え、真正面から迎え撃った。
刃と牙がぶつかる。
轟音。
衝撃が地面を砕く。
「ぐっ……!」
押し切れない。
巨大な魔狼はベスをそのまま押し込み、崖際まで吹き飛ばした。
地面が崩れる。
「ベス!!」
アイラの悲鳴が響く。
崩れ落ちる岩肌。
巨大な魔狼はベスの腕を噛み、谷の霧の中へ飛び込んだ。
「待てぇぇぇ!!」
レオンが駆け出す。
しかし魔狼の群れが進路を塞ぐ。
ガルドは渾身の一撃で群れを切り裂き、崖へ辿り着いた。
だが、そこには深い霧が広がるだけだった。
ベスの姿も。
巨大な魔狼の姿もない。
ただ、谷底から遠く響く獣の咆哮だけが耳に届く。
ガルドは拳を強く握り締めた。
「必ず見つける。」
「何があろうと、お前を連れ戻す。」
灰鷹はすぐに捜索を開始する。
一方その頃、霧深い谷底では――。
意識を失ったベスを背に乗せた巨大な魔狼が、誰も知らない渓谷の奥へと静かに歩みを進めていた。




