シェリアク
「継承者。」
静かな声が、白銀の広間に響く。
辺りを見回しても、人影はない。
レオンは大剣を構えた。
「姿を見せろ!」
返事はない。
代わりに、祭壇の奥から淡い白い光が揺らぎ始めた。
その光はゆっくりと人の形を成していく。
白い長衣をまとった、一人の老人だった。
身体は半透明で、向こう側の景色が透けて見える。
「亡霊……?」
リシアが思わず呟く。
老人は静かに首を横へ振った。
「違う。」
「私は意思だけをこの場所へ残した、最後の語り部。」
「名は……もう忘れられた。」
ルキウスが目を見開く。
「まさか……。」
「初代記録守……。」
老人は穏やかに微笑んだ。
「その名で呼ばれることもあった。」
「だが、今はただの語り部でよい。」
その視線がベスへ向く。
「継承者。」
「よくここまで辿り着いた。」
ベスは一歩前へ出る。
「あなたは神代を知っているんですね。」
「知っている。」
「では教えてください。」
「神は、なぜ都を滅ぼした。」
広間に静寂が流れる。
老人は目を閉じ、ゆっくりと首を横へ振った。
「今は話せぬ。」
レオンが思わず声を荒げる。
「なんだと!」
「ここまで来て、それかよ!」
老人は怒ることなく答えた。
「答えとは、受け止められる者だけが知る資格を持つ。」
「順序を違えれば、真実は人の心を壊す。」
その言葉に、誰も反論できなかった。
老人は祭壇へ手をかざす。
何もなかった祭壇の上へ、一枚の石板が浮かび上がる。
そこには無数の名前が刻まれていた。
「これは……。」
アイラが近づく。
「人の名前……?」
老人は静かに頷く。
「神代を生きた者たち。」
「戦士も。」
「学者も。」
「名も残らぬ子どもたちも。」
「この場所には、生きた証だけが刻まれている。」
ベスは石板を見つめる。
どの名前も、もう誰にも語られていない。
それでも確かに、この世界を生きた人たちだった。
「歴史とは。」
老人は穏やかな声で続ける。
「勝者が語るものではない。」
「敗れた者も。」
「救えなかった者も。」
「名も知られぬ者も。」
「そのすべてが積み重なって、世界になる。」
ルキウスは静かに頭を垂れた。
「だから、アルセリアは記憶を守ってきたのですね。」
「そうだ。」
老人は優しく微笑む。
「忘れられた命は、二度死ぬ。」
「だから我らは、語り継いだ。」
その時だった。
祭壇の石板が淡く震え始める。
文字の一つひとつが光を放つ。
老人の表情が初めて曇った。
「……早い。」
ガルドが剣へ手を掛ける。
「何が起きる。」
老人は石板を見つめたまま答えた。
「外の鐘が、この聖域へも届き始めている。」
「記憶が侵される。」
「急がねばならない。」
ベスは左腕へ目を向ける。
灰色の紋様。
鼓動は、まだ感じられない。
それでも、不思議と焦りはなかった。
今、自分が聞くべきなのはフェンリルの声ではない。
神代を生きた者たちの想いだ。
老人はそんなベスを見つめ、静かに頷いた。
「それでいい。」
「継承者よ。」
「お前はようやく、『力』ではなく『記憶』を求める者になった。」
その瞬間――
轟音とともに、白銀の回廊全体が激しく揺れた。
壁に刻まれた狼の壁画へ、黒い亀裂が走る。
「まさか!」
ルキウスが叫ぶ。
「ノクスが聖域へ干渉している!」
老人は静かに目を閉じた。
「始まってしまったか……。」
広間の奥。
閉ざされていた最後の石門が、ゆっくりと軋みながら開いていく。
その向こうから流れてきたのは、冷たい闇ではない。
どこまでも澄み切った、白い光だった。
そして、その光の中へ続く一本道が、静かにベスたちを待っていた。




