カペラ
牙兎討伐から数日。
ベスの肩の傷はまだ痛んでいた。
だが、痛みより悔しさの方が大きい。
「あの程度で息が上がるなんて……。」
朝焼けの訓練場。
まだ誰も起きていない時間。
ベスは一人、木製の人形を相手に剣を振っていた。
低く踏み込み、
左の獣爪で人形を引き寄せ、
右手の剣を叩き込む。
何度も。
何百回も。
その姿はまるで獲物を狩る狼だった。
「違う。」
突然、後ろから声がした。
ベスは反射的に振り返る。
銀色の長い髪。
透き通るような青い瞳。
どこか儚げな雰囲気をまとった少女だった。
ベスは思い出す。
あの日月明かりの下で一人訓練していた夜。
遠くから自分を見つめていた少女だ。
年はベスより二つほど上。
白い修道服のような衣をまとい、腰には細身の剣を下げている。
「誰だ。」
「初めまして。」
少女は小さく頭を下げた。
「私はリシア。」
「この砦で治療師をしています。」
ベスは警戒を解かない。
「何か用?」
リシアは木製の人形を指差した。
「その子。」
「あなたに殴られすぎて、かわいそう。」
ベスは思わず人形を見る。
確かに、頭は半分なくなっていた。
「……。」
「ふふ。」
少女は初めて笑った。
その笑顔は、炎に包まれた村で止まっていたベスの時間を、ほんの少しだけ動かした。
「もう一回。」
リシアは木の枝を一本拾う。
「私に向かって来て。」
「は?」
「本気で。」
ベスは眉をひそめた。
「治療師なんだろ。」
「怪我するぞ。」
「いいから。」
ベスは構えた。
獣のように腰を落とす。
一瞬で距離を詰める。
左の爪。
右の剣。
いつもの連携。
だが。
コン。
木の枝が軽くベスの額に当たる。
「え?」
何が起きたのか分からない。
もう一度。
飛び込む。
また額を叩かれる。
三度目。
今度は足を払われ、尻もちをつく。
ベスは呆然とした。
「なんで……。」
リシアは枝を肩に担ぐ。
「あなた、目しか見てない。」
「え?」
「敵の剣も。」
「足も。」
「呼吸も。」
「何も見えてない。」
ベスは言葉を失う。
ガルドも似たことを言っていた。
「戦場を見ろ。」
その意味が少しだけ分かった気がした。
その日の昼。
砦の裏山で薬草摘みを手伝うことになる。
「戦えないのに危なくないのか?」
ベスが尋ねると、リシアは笑う。
「私も戦えるよ。」
「え?」
その瞬間。
ガサガサッ!
茂みから小型の魔物が飛び出す。
牙兎だった。
ベスは剣を抜く。
しかしリシアは止めた。
「見てて。」
牙兎が飛びかかる。
リシアは一歩だけ横へ動く。
それだけ。
牙兎は勢い余って木へ激突した。
気絶。
「……。」
ベスは口を開けたまま固まる。
「倒すことだけが勝つことじゃない。」
リシアは薬草を摘みながら言う。
「相手の力を利用すれば、自分は傷つかない。」
「でも……。」
ベスは拳を握る。
「俺は神を倒す。」
「そのためには力が必要なんだ。」
リシアは少しだけ寂しそうに空を見上げた。
「うん。」
「でもね。」
「復讐だけを見て歩く人は、足元に咲く花に気付けなくなる。」
ベスは意味が分からなかった。
今の彼には。
空も。
花も。
鳥の声も。
すべて色を失っていたから。
⸻
その夜。
一人で訓練するベス。
いつものように飛び込む。
しかし今日は少しだけ違う。
飛び込む直前。
一瞬だけ相手の足を見る。
肩を見る。
呼吸を見る。
ほんの少しだけ。
獣が周囲を観察するようになった。
屋根の上からガルドが呟く。
「始まったな。」
隣のボルグが笑う。
「何がです?」
「獣が、人になり始めた。」
夜空には無数の星が輝いていた。
その中の一つだけが、ほんの少し強く瞬いた、、、。
まるで遠い天から、誰かがベスの成長を静かに見守っているかのように。




