ポラリス
秋の風が砦を吹き抜ける。
ベスが灰鷹へ来てから半年が過ぎていた。
毎日、山を走る。
薪を割る。
丸太を担ぐ。
木刀を振る。
その生活は一日も変わらない。
変わったのは、ベス自身だった。
幼かった身体には少しずつ筋肉がつき、細かった腕にも力が宿り始めていた。
それでもガルドには一度も勝てない。
一太刀も届かない。
「まだだ。」
その言葉だけが毎日返ってくる。
ある朝。
ガルドは一本の剣をベスへ投げた。
鞘に収まった鉄の片手剣。
「今日から木刀は終わりだ。」
ベスは目を見開く。
「本物……。」
「ただし。」
ガルドは左腕を指差した。
「獣爪も使え。」
ベスは左腕の黒い籠手を見る。
《獣爪ガントレット・フェンリル》。
この半年、一度も実戦で使われることはなかった。
ガルドは静かに構える。
「来い。」
ベスは深く息を吸う。
剣を握る。
右足を半歩引き、
腰を低く落とす。
その姿勢は、剣士というより獣だった。
次の瞬間。
地面を蹴る。
速い。
一直線ではない。
右へ。
左へ。
低く。
まるで狼が獲物を狩るように走る。
ガルドの剣が振られる。
ベスは飛び込まない。
滑るように懐へ潜り込む。
左腕の爪が閃く。
キィン!!
金属がぶつかる。
ガルドが初めて受け止めた。
「……ほう。」
その一瞬だった。
ベスは右手の剣を横薙ぎに振る。
しかし。
ガルドは身体を半歩引くだけで避ける。
木刀では届かなかった距離。
今もまだ届かない。
「甘い。」
次の瞬間。
ベスは空を見ていた。
背中から地面へ叩きつけられる。
息が止まる。
「ぐっ……!」
ガルドは剣を下ろした。
「今の動きは悪くない。」
「だが。」
「お前は敵しか見ていない。」
「戦場を見ろ。」
ベスは悔しさで唇を噛む。
また負けた。
だが今回は違った。
一撃だけ。
ほんの一瞬だけ。
ガルドの剣を止めることができた。
それだけで胸が熱くなる。
その日の午後。
「依頼だ。」
団員たちが集められた。
山の麓にある農場で、小型魔物《牙兎》が家畜を襲っているという。
「今回はベスも行く。」
その言葉に周囲がざわつく。
「まだ早い。」
「子どもだぞ。」
ガルドは首を横に振る。
「初陣だ。」
ベスは拳を握る。
ついに。
初めて。
本物の戦いだった。
森へ入って間もなく。
ガサッ。
草むらが揺れる。
赤い瞳。
灰色の毛。
鋭い牙。
狼ほどの大きさを持つ魔物《牙兎》。
一体。
二体。
三体。
群れだった。
団員が剣を抜く。
しかし。
「待て。」
ガルドはベスを見る。
「お前がやれ。」
喉が渇く。
手が震える。
足も震える。
怖い。
怖くて仕方ない。
目の前にいるのは、村を襲った魔物とは比べものにならないほど小さい。
それでも。
命を奪い合うことに変わりはない。
牙兎が飛びかかる。
ベスは考えるより先に身体が動いた。
低く潜る。
左腕の獣爪で牙を弾く。
火花が散る。
その勢いのまま肩から体当たり。
牙兎がよろめく。
「今だ!」
ガルドの声。
右手の剣が振り下ろされる。
鮮血が舞う。
一体目。
倒した。
だが残り二体が襲いかかる。
ベスは咆哮にも似た叫びを上げる。
「うおおおおっ!」
剣と爪が乱舞する。
噛みつくように踏み込み、
獣のように敵へ食らいつく。
その戦い方は、美しくない。
荒々しい。
泥臭い。
だが、生きることだけを求めた戦いだった。
数分後。
三体の牙兎は地面に倒れていた。
ベスもまた、膝をつく。
肩からは血が流れ、
息は荒く、
身体は震えている。
ガルドは静かに近づいた。
「初勝利だ。」
ベスは倒した魔物を見つめる。
嬉しくなかった。
誇らしくもなかった。
命を奪った重みだけが胸に残る。
それでも。
父と母を守れなかったあの日の少年より、一歩だけ前へ進めた気がした。
ガルドはその背中を見つめ、小さく呟く。
「獣は牙で戦う。」
「人は、何のために剣を振るうのか。」
その答えを知る日まで、ベスの旅は続いていく。




