トゥバン
村人たちの足跡を追い、灰鷹は深い森へ足を踏み入れた。
木々は空を覆い隠し、昼だというのに薄暗い。
不思議なことに風はなく、葉擦れの音すら聞こえなかった。
静寂だけが、一行を包み込んでいる。
「……気を付けろ。」
ガルドが低く告げる。
「ここは普通の森じゃない。」
エインも頷いた。
「気配が多すぎる。」
「でも、人はいない。」
しばらく歩くと、道が三つに分かれていた。
どの道にも村人の足跡が続いている。
「そんな馬鹿な……。」
アイラが眉をひそめる。
「同じ人の足跡が三方向に分かれるなんて。」
レオンが地面を見つめる。
「幻術か?」
ガルドは静かに首を振る。
「いや。」
「心を惑わせる結界だ。」
「見る者によって道が変わる。」
ベスは目を閉じた。
族長の言葉が胸によみがえる。
『力は何度でも主を試す。』
そして、泉で感じたフェンリルの願い。
『守れ。』
ゆっくり息を吸い、左腕へ意識を向ける。
熱はない。
代わりに、静かな鼓動だけが返ってくる。
ベスは迷わず中央の道を指差した。
「こっちだ。」
「分かるのか?」
レオンが尋ねる。
「分からない。」
ベスは苦笑する。
「でも、フェンリルが騒がない。」
「それだけで十分だ。」
ガルドは小さく笑った。
「なら信じよう。」
仲間たちは迷わずベスの後に続いた。
森の奥へ進むにつれ、囁く声が聞こえ始める。
『引き返せ。』
『救えない。』
『お前一人では何も変えられない。』
誰の声とも分からない。
だが、その言葉は胸の奥へ染み込んでくる。
リシアが立ち止まる。
「……私。」
「どうした?」
ベスが振り返る。
リシアは唇を噛み締めていた。
「神殿にいた頃の声が聞こえる。」
『お前は無力だ。』
『癒やすことしかできない。』
『戦えない者は足手まといだ。』
ベスは静かにリシアの肩へ手を置いた。
「違う。」
「フィルナで、一番多くの命を救ったのはリシアだった。」
リシアは目を見開く。
「俺たちは戦うためだけにいるんじゃない。」
「守るためにいる。」
その一言で、囁きは風に溶けるように消えていった。
さらに進むと、今度はレオンが足を止める。
握る拳が震えている。
「俺は……。」
「また仲間を守れないのか。」
かつて失った戦友の幻影が、木々の間に立っていた。
「逃げたお前のせいだ。」
「お前だけ生き残った。」
レオンは大剣を握る手に力を込める。
その肩へ、今度はガルドが手を置いた。
「お前は逃げたんじゃない。」
「生き延びたんだ。」
「だから今、ここにいる。」
レオンは静かに目を閉じる。
幻影は霧のように消えていった。
やがて森が開ける。
そこには小さな湖が広がっていた。
湖畔には、村人たちが静かに座っている。
眠っているようにも見える。
誰も苦しんではいない。
穏やかな表情だった。
「みんな無事だ!」
リシアが駆け寄ろうとした、その瞬間――
湖の中央に波紋が広がる。
黒い水面が揺れ、一人の人影が姿を現した。
漆黒の衣。
顔は仮面に隠され、その瞳だけが静かに輝いている。
ベスは剣へ手を掛ける。
しかし、人影は武器を持っていなかった。
ただ穏やかな声で語りかける。
「ようこそ、灰鷹。」
「我らは争いを望まない。」
その言葉に、一同は戸惑う。
「なら、なぜこんなことをする!」
ベスが叫ぶ。
人影は湖面へ視線を落とした。
「彼らは苦しみから解放されている。」
「飢えも。」
「悲しみも。」
「恐れも。」
「すべて忘れて眠っている。」
静かな口調だった。
だからこそ、その思想の恐ろしさが際立つ。
「それは救いじゃない。」
ベスは一歩前へ出る。
「生きることを諦めさせているだけだ。」
人影は初めて、わずかに微笑んだように見えた。
「ならば示してみせよ。」
「痛みも悲しみも抱えたまま、それでも人は前へ進めると。」
湖面に映る空が黒く染まる。
人影の姿は波紋とともに消えていった。
残された村人たちは、まだ静かな眠りの中にいる。
ベスはその姿を見つめ、静かに拳を握り締めた。
虚無の使徒は、命を奪うためではなく、希望そのものを奪うために現れる。
だからこそ、自分は負けられない。
その決意だけが、静かな湖畔にまっすぐ響いていた。




