クー・シェン
フィルナを発った灰鷹は、西へ続く街道を急いでいた。
古都アルセリアまでは、およそ三日。
途中には小さな村が点在し、多くの旅人が行き交う道だった。
だが今、その街道は静まり返っている。
荷馬車は道端に乗り捨てられ、焚き火の跡だけが風に冷えていた。
「人がいない……。」
リシアが不安そうに呟く。
エインは地面へ膝をついた。
「足跡は多い。」
「争った形跡はない。」
「逃げたんだ。」
ガルドは空を見上げる。
鳥すら飛んでいない。
「嫌な静けさだ。」
昼過ぎ。
街道沿いの小さな村へ辿り着く。
家々は無事だった。
井戸にも水はある。
それなのに、人影がない。
「誰か!」
レオンが呼び掛ける。
返事はない。
ベスは家の扉を開ける。
食卓には温かいままの鍋。
椅子は倒れたまま。
まるで住人だけが、一瞬で消えてしまったようだった。
「待って。」
アイラが床を指差す。
黒い砂。
ほんのわずかだが、床へ散らばっている。
クロードから見せられた刻印の欠片と、よく似た色だった。
「虚無の使徒……。」
ベスが低く呟く。
その時だった。
家の奥から物音がする。
コトン……
全員が武器を構える。
ゆっくり近付くと、戸棚の陰から一人の少女が顔を出した。
十歳ほどだろうか。
怯えた瞳でベスたちを見ている。
「大丈夫。」
ベスは剣から手を離し、しゃがみ込んだ。
「もう怖くない。」
少女はしばらく黙っていたが、やがて震える声で話し始めた。
「みんな……歩いて行っちゃった。」
「歩いて?」
少女は何度も頷く。
「黒い人は誰も殺さなかった。」
「でも……。」
「みんな、笑ってた。」
その言葉に全員が息を呑む。
少女の案内で村外れへ向かう。
そこには無数の足跡が続いていた。
森の奥へ。
まるで村人全員が、自分の意思で歩いて行ったようだった。
リシアは胸元の聖印を握る。
「操られた……?」
ガルドは首を横に振る。
「違う。」
「もっと厄介だ。」
その時。
風に乗って、誰かの歌声が聞こえてきた。
優しい子守唄。
どこか懐かしい旋律。
ベスは思わず足を止める。
「……母さん?」
耳元で、幼い頃に聞いた声がした。
『もう頑張らなくていい。』
『帰っておいで。』
胸が締め付けられる。
一歩。
また一歩。
知らず知らずのうちに、森へ足を踏み入れていた。
「ベス!」
リシアの叫び声が響く。
その瞬間、左腕のフェンリルが強く脈打った。
熱い。
焼けるような熱。
ベスは我に返り、その場へ膝をつく。
「……今のは。」
額から汗が流れる。
「幻じゃない。」
「心を読まれた。」
ガルドの表情がさらに険しくなる。
「これが奴らの力か。」
クロードの言葉が脳裏をよぎる。
『虚無の使徒は、人の絶望につけ込む。』
剣ではない。
恐怖でもない。
人が心の奥底で願ってしまうもの。
そこへ静かに囁き、歩みを止めさせる。
それが虚無の使徒の恐ろしさだった。
少女はベスの袖をぎゅっと掴んだ。
「お兄ちゃん。」
「みんなを助けられる?」
ベスは少しだけ目を閉じる。
自分も、あと一歩で連れて行かれるところだった。
それでも、答えは決まっていた。
「助ける。」
「絶対に。」
その瞳に迷いはない。
フェンリルも静かに鼓動を返す。
まるで、その決意を認めるように。
夕暮れ。
灰鷹は村人たちの足跡を追い、森の奥へ進み始める。
木々の隙間から差し込む赤い光。
その先には、誰かが待っている気配があった。
虚無の使徒は、ただ街を襲う存在ではない。
人の心に巣食い、希望を静かに奪っていく。
ベスは左腕を握り締める。
守るべきものは命だけではない。
人が未来を信じる心もまた、守らなければならない。
その想いを胸に、灰鷹は静かな森の闇へと足を踏み入れた。




