アルヘナ
フィルナの街は炎に包まれていた。
赤く染まる空。
崩れ落ちる建物。
逃げ惑う人々の悲鳴が、石畳に反響する。
灰鷹は燃え盛る城門をくぐり、街へ飛び込んだ。
「救助を最優先だ!」
ガルドの声が響く。
「レオンは西区! アイラとエインは北側を確認!」
「リシアは治療所を確保しろ!」
「ベスは俺と中央広場へ向かう!」
「了解!」
全員が迷うことなく駆け出した。
ベスは炎の中を走る。
崩れた梁の下から幼い少年の泣き声が聞こえた。
「待ってろ!」
左腕に宿るフェンリルの力を静かに解放する。
獣爪が岩を砕くためではなく、人を守るために木材を持ち上げる。
少年を抱き上げると、近くの広場へ運んだ。
「ありがとう……。」
少年の母親は涙を流しながら何度も頭を下げる。
ベスは照れくさそうに笑った。
「礼なら、ちゃんと生きて言ってくれ。」
その言葉に、母親は強く頷いた。
街の各所では仲間たちも必死に住民を救っていた。
レオンは崩れた荷車を押し退け、閉じ込められた老人たちを助け出す。
アイラとエインは倒壊しそうな建物へ入り、取り残された子どもたちを避難させる。
リシアは治療所で休む間もなく癒やしの術を使い続けていた。
戦うための力ではない。
守るための力。
灰鷹という名が、人々の間で少しずつ広がっていく。
中央広場へ辿り着いたベスとガルドは、その光景に息を呑んだ。
石畳いっぱいに広がる巨大な紋様。
墨を流したような漆黒の刻印が、街の中心を覆っている。
その周囲では何十人もの住民が眠るように倒れていた。
リシアが駆け寄り、一人の手を握る。
「命に別状はありません……。」
「でも、呼び掛けても目を覚まさない。」
アイラが刻印を見つめる。
「封印術式じゃない……。」
「魂そのものを眠らせる古代術式。」
ガルドの顔色が変わる。
「こんな術は失われたはずだ。」
その瞬間だった。
刻印が鈍く脈打つ。
ゴォォォ……
黒い霧がゆっくりと立ち昇る。
広場全体の温度が下がる。
誰もが武器を構えた。
霧は人の形を取り始める。
漆黒の外套。
顔は闇に覆われ、輪郭すら曖昧だった。
ただ、その存在だけが異様な圧迫感を放っている。
人影は真っ直ぐベスを見つめた。
「……フェンリル。」
低く響く声。
その一言だけで、左腕が熱を帯びる。
「お前は誰だ!」
ベスが叫ぶ。
人影はわずかに首を傾けた。
「まだ継承されていたか。」
「ならば……時は近い。」
その言葉には驚きも怒りもない。
ただ、事実を確認するような静けさだけがあった。
「答えろ!」
ベスが一歩踏み出した瞬間、人影は右手を掲げる。
刻印が激しく光を放つ。
「まずい!」
アイラが叫ぶ。
「術式が崩れる!」
黒い光は空へと昇り、無数の粒となって散っていく。
それと同時に、人影の身体も霧へと戻り始めた。
消えゆく中で、その声だけが街へ残る。
「すべては、静寂へ還る。」
「争いも。」
「神も。」
「人も。」
「その時まで……。」
霧は風へ溶けるように消えた。
刻印も静かに砕け散る。
広場には重い沈黙だけが残った。
やがて、眠っていた住民たちが次々と目を覚ます。
「ここは……?」
「何が起きたんだ?」
記憶は途切れているようだった。
リシアは安堵の表情を浮かべる。
「助かった……。」
ベスも胸を撫で下ろした。
街は傷ついた。
それでも、多くの命は救えた。
その時、馬の駆ける音が響く。
黒鎧騎士団だった。
先頭に立つクロードは、広場へ残る黒い刻印の痕跡を見た瞬間、険しい表情になる。
「……間に合わなかったか。」
ベスが歩み寄る。
「知っているのか。」
クロードはしばらく沈黙した。
そして静かに膝をつき、砕けた刻印の欠片へ触れる。
「間違いない。」
「これは奴らの術だ。」
「奴ら?」
クロードはゆっくり立ち上がる。
その横顔には、これまで見せたことのない緊張が刻まれていた。
「俺たち黒鎧騎士団が、何百年も警戒し続けてきた存在。」
「神にも属さず、人にも属さない。」
「世界そのものを終わらせることだけを望む者たち。」
ベスたちは息を呑む。
クロードは空へ立ち昇る黒煙を見つめ、静かにその名を告げた。
「――虚無の使徒。」
その名が響いた瞬間、山で見た石碑の言葉、生き証人の警告、忘却の民の沈黙。
すべてが一本の線となり始める。
世界を巡る戦いは、神と人だけのものではなかった。
灰鷹の前に現れたのは、すべてを無へ還そうとする、第三の勢力。
彼らとの戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。




