ケバルライ
忘却の民の集落に夜が訪れた。
静かな虫の音。
焚き火の揺れる音。
遠くでは子どもたちの笑い声も聞こえる。
山の中とは思えないほど穏やかな夜だった。
それでも、ベスだけは眠ることができなかった。
左腕が熱い。
脈打つような鼓動が、心臓の鼓動と重なって響いている。
「眠れないか。」
振り返ると、大樹の下に族長が立っていた。
「少し……。」
ベスは苦笑する。
「フェンリルが騒いでいる気がして。」
族長は静かに頷いた。
「ならば来なさい。」
「見せたいものがある。」
集落の奥。
誰も立ち入らない森の中に、小さな泉があった。
水面は鏡のように澄み、一つの波紋さえ浮かんでいない。
月だけが静かに映っている。
「この泉は『心の泉』。」
族長はそう告げた。
「姿ではなく、魂を映す。」
ベスは水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、自分ではなかった。
巨大な白銀の狼。
月明かりを受けて輝く長い毛並み。
黄金の瞳。
その姿は恐ろしいほど神々しく、そして孤独だった。
「……フェンリル。」
狼は何も言わない。
ただ、じっとベスを見つめている。
「怖いか。」
族長が尋ねる。
ベスは少し考えた。
「前なら怖かった。」
「この力に呑まれると思っていました。」
左腕へ視線を落とす。
「でも今は違う。」
「怖いというより……。」
「知りたい。」
「お前は何者なんだって。」
その瞬間、水面が静かに揺れた。
白銀の狼が一歩近づく。
その口は動かない。
それでも一つの感情だけが、ベスの胸へ流れ込んできた。
『守れ。』
たった一つの想い。
怒りでも憎しみでもない。
誰かを守りたいという、強く、静かな願いだった。
ベスは思わず左腕を抱きしめる。
胸が締め付けられる。
涙が込み上げそうになる。
「……そうだったのか。」
フェンリルは力を求めているのではない。
守る者を求めている。
そのことだけが、言葉よりも深く伝わってきた。
泉を離れると、族長が穏やかに微笑んだ。
「何を見た。」
「願いでした。」
ベスは迷わず答える。
「フェンリルは……誰かを守りたかった。」
族長は静かに目を閉じる。
「ならば安心した。」
「お前はまだ、フェンリルに選ばれている。」
「まだ?」
「力は何度でも主を試す。」
「憎しみに支配されれば、フェンリルは牙を剥く。」
「慈しみを忘れれば、フェンリルは去る。」
ベスはその言葉を胸に刻んだ。
翌朝。
灰鷹が出発の準備をしていると、クロードが一人で近づいてきた。
「少し歩けるか。」
ベスは頷く。
二人は集落の外れまで並んで歩く。
しばらく沈黙が続いた後、クロードが口を開いた。
「昨日、お前に選択を迫った。」
「だが、一つだけ訂正する。」
ベスはクロードを見る。
「封印を守るか、解くか。」
「それだけじゃない。」
クロードは山の頂を見上げた。
「第三の道があるかもしれない。」
「俺たちは、それを探している。」
ベスの目がわずかに見開く。
「第三の道……。」
「世界は、二つの答えだけでできているとは限らない。」
クロードはそれだけ言うと、踵を返した。
「また会おう。」
その背中は、初めて敵ではなく、一人の旅人のように見えた。
灰鷹は忘却の民へ別れを告げる。
族長も、子どもたちも、白い外套の人々も静かに見送ってくれた。
集落を出る直前、ベスは一度だけ振り返る。
族長は何も言わず、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
ベスもまた、静かに頭を下げる。
山道へ戻る足取りは、ここへ来た時よりも少しだけ力強い。
フェンリルは呪いではなかった。
宿命でもなかった。
それは遠い昔から託され続けた、一つの願いだった。
そして、その願いをどう未来へ繋ぐのか。
その答えを探す旅は、まだ始まったばかりだった。




