ラスハゲ
忘却の民の集落。
朝靄の中、大樹の葉から朝露が静かに落ちていく。
族長から語られた「フェンリルは神より古き存在」という言葉は、灰鷹の誰もが胸の内で反芻していた。
その静寂を破ったのは、集落の見張りの声だった。
「来た!」
森の入口から十数人の影が現れる。
黒い鎧。
仮面。
先頭に立つのは、あの隊長だった。
レオンはすぐに大剣へ手を掛ける。
アイラは弓を構え、リシアも静かに祈りを捧げる。
しかし族長は右手を上げた。
「武器を収めなさい。」
「彼らは今日、戦いに来たのではない。」
黒い鎧の一団は集落へ入ると、一斉に武器を地面へ置いた。
その姿に灰鷹は驚く。
隊長は族長の前まで歩み寄り、深く頭を下げた。
「長。」
族長は穏やかに頷く。
「久しいな。」
そのやり取りを見て、ベスは目を見開く。
「知り合い……?」
族長は静かに答えた。
「彼らは敵ではない。」
「少なくとも、我らにとっては。」
隊長は仮面越しにベスを見つめる。
「驚いたか。」
「正直な。」
ベスは警戒を解かないまま答えた。
「何度も剣を交えた相手が、ここでは歓迎されてる。」
隊長は小さく笑ったように見えた。
「当然だ。」
「我々は世界を守るために剣を抜いている。」
「お前たちも同じだろう?」
その言葉に、レオンが低く唸る。
「だったら、なぜ邪魔をする。」
隊長は視線を逸らさず答えた。
「守る方法が違う。」
「それだけだ。」
族長は全員へ席を勧めた。
円卓代わりの大きな切り株を囲み、灰鷹と黒い鎧の集団が向かい合う。
奇妙な光景だった。
昨日まで命を懸けて戦っていた者同士が、一つの卓を囲んでいる。
温かい薬草茶が配られる。
誰も口を付けない。
最初に沈黙を破ったのはベスだった。
「聞かせてくれ。」
「お前たちは何者なんだ。」
隊長はしばらく黙っていた。
やがて仮面へ手を掛ける。
「……ここまで来たお前たちには、知る資格がある。」
ゆっくりと仮面が外される。
現れたのは四十代ほどの男だった。
鋭い目。
頬に一本の古傷。
だが、その表情には敵意ではなく、長い旅を続けてきた者の疲労が滲んでいた。
「俺の名はクロード。」
「黒鎧騎士団団長だ。」
「俺たちは神に仕えているわけじゃない。」
クロードは静かに言う。
「神殿にも属していない。」
「では、誰に?」
リシアが尋ねる。
「未来だ。」
短い答えだった。
誰も意味を理解できない。
クロードは続ける。
「世界は一度、大きく滅びかけた。」
「その時代を知る者たちは、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう動いている。」
『俺たちは、それを一度見ている。』
あれは比喩ではなかった。
「……お前たちは。」
ベスは息を呑む。
「昔を知っているのか?」
クロードは首を横に振る。
「俺自身は知らない。」
「だが、記憶は受け継がれてきた。」
「代々団長だけが知る記録。」
「そして、その記録は今も続いている。」
ガルドが腕を組む。
「だから石碑を集めていたのか。」
「そうだ。」
「封印を守るために。」
その時。
族長が静かに口を開く。
「クロード。」
「お前はまだ、一番大切なことを話しておらん。」
クロードはゆっくりと頷いた。
そしてベスを真っ直ぐ見つめる。
「フェンリルを継ぐ者。」
「お前は、いずれ選ばなければならない。」
「封印を守るか。」
「封印を解くか。」
その言葉に、左腕が熱を帯びる。
フェンリルが鼓動する。
まるで、その問いに反応するかのように。
その日の夕暮れ。
灰鷹と黒鎧騎士団は、それぞれ別々の焚き火を囲んでいた。
敵ではない。
だが、まだ仲間でもない。
互いの信じるものが違う限り、その距離は簡単には埋まらない。
ベスは燃える炎を見つめながら、左腕を静かに握った。
封印を守るべきなのか。
それとも、解くべきなのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
だが確かなことが一つある。
世界の命運は、少しずつ自分の手へ委ねられ始めていた。




