レグルスβ
忘却の民の集落に、夜の静けさが降りていた。
大樹の枝に吊るされた灯火が風に揺れ、淡い光が木の家々を照らしている。
灰鷹は族長から用意された小屋で休んでいたが、ベスだけは眠れずに外へ出た。
左腕のフェンリルが、かすかに熱を帯びている。
「……落ち着かないな。」
独り言のように呟く。
すると背後から声がした。
「その感覚は正しい。」
振り返ると、忘却の民の族長が立っていた。
老人はゆっくりとベスの隣へ歩み寄る。
「フェンリルは、目覚めかけておる。」
「目覚める?」
ベスは左腕を見つめた。
「これは武器じゃないんですか。」
族長は首を横に振る。
「武器でもある。」
「だが本質は違う。」
「フェンリルは、古き民が世界を守るために残した“器”じゃ。」
族長は大樹の根元へ座るよう促した。
夜空には無数の星が瞬いている。
「昔、この世界には神より前の民がいた。」
「彼らは自然と共に生き、星々の力を知っていた。」
「だが空から来た者たち――後に神と呼ばれる存在が現れた。」
ベスは静かに聞き入る。
「争いが起きたんですか。」
「最初は違った。」
族長の声は穏やかだった。
「神々は知識と力をもたらした。」
「古き民は彼らを受け入れた。」
「だが、力はやがて欲望を生む。」
「神々も、古き民も、互いを恐れ始めた。」
その時、フェンリルが強く脈打った。
ベスの視界が揺らぐ。
星空が消え、別の景色が広がった。
荒野だった。
黒い空。
燃える大地。
巨大な狼の影が咆哮を上げている。
その周囲には、光を纏った人々が立っていた。
彼らは恐れていない。
むしろ、狼へ祈りを捧げていた。
『フェンリルよ。』
誰かの声が響く。
『世界を壊す力ではなく、守る力として眠れ。』
巨大な狼は静かに目を閉じる。
その身体が光となり、一つの器へ封じ込められていく。
最後に見えたのは、狼の金色の瞳だった。
「っ……!」
ベスは我に返る。
息が荒い。
左腕が熱を持っている。
族長は静かに頷いた。
「見えたか。」
「あれは……。」
「フェンリルの記憶。」
「あるいは、フェンリルへ託された願いじゃ。」
ベスは左腕を押さえた。
「世界を壊す力じゃない……?」
「本来はな。」
族長は空を見上げる。
「だが力は使う者によって変わる。」
「守ろうとする者の手では盾となる。」
「憎しみに支配された者の手では、世界を裂く牙となる。」
ベスは黙り込む。
自分はずっと、神への憎しみを抱えてきた。
もしあのまま憎しみだけでフェンリルを使っていたら。
「……俺は。」
「まだ完全には使えていない。」
族長は穏やかに微笑んだ。
「それでよい。」
「完全に使いこなせた時こそ、危うい。」
「大切なのは、力を持つことではない。」
「力に飲まれぬことじゃ。」
その時だった。
集落の見張り台から警鐘が鳴り響く。
カン、カン、カン――
静かな夜が一瞬で緊張に変わる。
「何だ!」
レオンたちが小屋から飛び出してくる。
忘却の民の若者が駆け寄った。
「黒い鎧の集団です!」
「山道からこちらへ向かっています!」
ガルドの表情が険しくなる。
「来たか……。」
ベスは立ち上がり、左腕を見つめた。
フェンリルの熱はまだ残っている。
だが先ほどまでの不安は、少しだけ薄れていた。
「行こう。」
ベスは仲間たちを見る。
「守るために。」
その言葉に、リシアが静かに頷いた。
夜の森を越え、黒い鎧の集団が迫ってくる。
フェンリルの記憶を知ったばかりのベスにとって
それは初めて
「守るために戦う」夜になろうとしていた。




