アスピディスケ
星降る祭壇を後にした灰鷹は、守護獣が消えていった森の奥へと歩みを進めていた。
不思議なことに、道はないはずなのに迷うことがない。
まるで誰かに導かれているようだった。
「……静かだな。」
レオンが辺りを見回す。
鳥も獣も姿を見せない。
聞こえるのは風が木々を揺らす音だけ。
その静けさが、かえって緊張を誘う。
しばらく歩くと、ガルドが足を止めた。
「誰かいる。」
全員が武器へ手を掛ける。
木々の間。
白い外套を纏った人影が一人。
そして二人。
さらに三人。
気付けば十人近い人々が、音もなく立っていた。
誰も武器を向けてはいない。
ただ静かに灰鷹を見つめている。
「人……なのか?」
レオンが小さく呟く。
その中から、一人の女性が前へ歩み出た。
銀色の長い髪。
深い緑色の瞳。
年齢は二十代ほどに見える。
しかし、その眼差しには途方もない時を生きた者だけが持つ静けさが宿っていた。
「ようこそ。」
「旅人たち。」
透き通るような声だった。
ガルドが一歩前へ出る。
「あなた方は?」
女性は穏やかに頭を下げる。
「私たちは、忘却の民。」
「世界から姿を消した者たちです。」
誰もその名を聞いたことがなかった。
アイラだけが目を見開く。
「まさか……。」
「古文書にあった、滅んだ種族?」
女性は静かに首を横へ振る。
「滅んだのではありません。」
「忘れられたのです。」
その言葉に、誰も返すことができなかった。
忘却の民の集落は森の中にひっそりと築かれていた。
木々を傷つけることなく建てられた家々。
澄んだ水路。
畑には色鮮やかな作物が実っている。
子どもたちが笑いながら駆け回る姿に、ベスは思わず目を細めた。
「普通に……暮らしてる。」
女性は頷く。
「争いから離れれば、人は穏やかに生きられます。」
その言葉は、どこか寂しさも含んでいた。
集落の奥。
一本の大樹の前で女性は足を止める。
「族長がお待ちです。」
大樹の根元には、一人の老人が座っていた。
痩せた身体。
白い髭。
しかし、その瞳だけは空のように澄んでいる。
老人はベスを見るなり、優しく微笑んだ。
「……フェンリルを継ぐ者よ。」
その一言で空気が変わった。
レオンたちが一斉にベスを見る。
ベス自身も目を見開いていた。
「俺を……知っているんですか?」
老人は静かに頷く。
「いや。」
「お前ではない。」
「その左腕を知っている。」
ベスは思わず左腕へ目を落とす。
フェンリルが、微かに鼓動するように光っていた。
老人はゆっくりと立ち上がる。
「安心せよ。」
「奪うために呼んだのではない。」
「確かめるためだ。」
「何をですか?」
ベスが尋ねる。
老人は穏やかな笑みを浮かべた。
「フェンリルは、人を選ぶ。」
「力を求めた者は喰われる。」
「世界を守ろうとした者だけが、その力を借りられる。」
ガルドが静かに息を吐く。
「……やはり伝承は本当だったか。」
ベスは仲間たちを見回した。
誰も恐れた顔をしていない。
リシアは優しく微笑み、小さく頷いた。
その姿に、ベスの胸のつかえが少しだけ軽くなる。
老人は空を見上げる。
木々の隙間から夕日が差し込んでいた。
「お前たちは答えを求めている。」
「だが答えを知る前に、一つ知らねばならぬことがある。」
老人はベスを真っ直ぐ見つめる。
「神より古き民は存在した。」
「そして――」
一拍置いて、静かに続けた。
「フェンリルもまた、神より古き存在だ。」
その言葉に、その場の全員が息を呑む。
左腕の鼓動が、一際強く響いた。
ベスは初めて、自分が宿した力の正体に近づこうとしていた。
その夜、忘却の民の集落には静かな灯がともる。
だがその灯の向こうで、世界を揺るがす真実もまた、ゆっくりと姿を現そうとしていた。




