シェダル
夜明け前。
空が藍色に染まる頃、灰鷹はラグナスを後にした。
街道を抜け、草原を越え、目の前に広がるのは巨大な岩山。
東の大陸を南北に分ける絶壁。
天穿山脈。
近づくほど、その存在感は増していく。
まるで山そのものが旅人を拒んでいるようだった。
「……でかいな。」
レオンが思わず息を漏らす。
ガルドは山を見上げたまま静かに言う。
「ここから先は、人が決めた道じゃない。」
「山が通る者を選ぶ。」
その言葉に誰も返事をしなかった。
岩肌に刻まれた細い獣道を進む。
風は冷たく、鳥の声ひとつ聞こえない。
静寂だけが辺りを支配していた。
「妙だな。」
アイラが足を止める。
「魔物の気配がない。」
「足跡も少ない。」
魔物がいない。
それは安全という意味ではない。
この山には、何か別の理由で生き物たちが近寄らないのだ。
昼過ぎ。
狭い谷を抜けようとした時だった。
ゴゴゴゴ……
足元が震える。
「伏せろ!」
ガルドの叫び。
次の瞬間、崖の上から無数の岩が崩れ落ちた。
轟音が谷へ響く。
「ベス!」
リシアの声。
ベスは咄嗟に飛び出し、転びそうになった子鹿を抱えて岩陰へ飛び込む。
巨大な岩が目の前を転がり落ち、土煙が舞い上がった。
やがて静寂が戻る。
「全員いるか!」
ガルドの声が響く。
「大丈夫!」
「問題ない。」
全員無事だった。
ベスの腕の中では、震える子鹿が小さく鳴いている。
「親とはぐれたのか……。」
ベスはそっと地面へ降ろした。
子鹿は一度だけベスを見上げると、森の奥へ駆けていった。
その姿を見届けたリシアが優しく笑う。
「助けちゃうんだね。」
「目の前にいたから。」
ベスは照れくさそうに答えた。
レオンが豪快に笑う。
「そういうところだぞ、お前は。」
さらに山を登る。
霧が少しずつ濃くなり、視界は数十歩先までしか見えない。
その時。
エインが短剣を抜いた。
「囲まれてる。」
全員が武器を構える。
霧の中から現れたのは、六匹の灰色の狼。
だが、その瞳には敵意がなかった。
先頭の一匹がベスの前まで歩み寄る。
鼻先を近づける。
匂いを確かめるように一度だけ鼻を鳴らした。
そして山の奥を向き、低く吠える。
「どういうことだ?」
レオンが戸惑う。
ガルドは狼たちを見つめたまま答えた。
「案内している。」
「……いや。」
「試しているのかもしれん。」
狼たちは振り返ることなく歩き始めた。
ベスは仲間を見回す。
「行こう。」
誰も反対しなかった。
一時間ほど歩いただろうか。
霧が突然晴れる。
目の前には巨大な石門が姿を現した。
自然にできたとは思えない。
左右には風化した石像。
中央には古代文字。
アイラが指先で文字をなぞる。
「読めない……。」
リシアも首を振る。
「神代文字とも違う。」
ガルドは低く呟く。
「神々より古い文字だ。」
その瞬間だった。
石門の奥から、乾いた足音が響く。
コツ……
コツ……
コツ……
全員が身構える。
やがて霧の向こうから、一人の老人が姿を現した。
白い髭を腰まで伸ばし、木の杖を手にしている。
しかし、その瞳だけは若者のように鋭かった。
老人は灰鷹を一人ずつ見回し、最後にベスで視線を止める。
そして静かに口を開く。
「……ようやく来たか。」
その一言に、ベスの背筋を冷たいものが走った。
まるで老人は、自分たちが来ることをずっと前から知っていたかのようだった。
天穿山脈は、まだ入口に過ぎない。
本当の試練は、ここから始まろうとしていた。




