アルゴル
交易都市ラグナスで三日間の休息を終えた灰鷹は、夜明けとともに街を発った。
石畳の街道を離れるにつれ、人の気配は少なくなっていく。
やがて広がっていた草原は姿を変え、険しい岩場へと変わっていった。
遥か前方。
雲を突き抜けるような巨大な山脈が、大地を分かつ壁のようにそびえている。
天穿山脈。
東の大陸に住む者でさえ、その奥へ足を踏み入れた者はほとんどいない。
「空気が違うな。」
レオンが深く息を吸う。
「重たい。」
アイラも周囲を見渡しながら頷いた。
「魔力の流れが乱れてる。」
リシアは胸元の聖印へ手を添える。
「……嫌な感じがする。」
ガルドは足を止めることなく答えた。
「正常だ。」
「この山脈は昔から、そういう場所だ。」
ベスは前方の山を見上げる。
第一神殿。
生き証人。
そして、まだ見えない真実。
全てがこの先にある気がした。
昼過ぎ。
山道の入口に、小さな石碑が建っていた。
長い年月を経て文字はほとんど消えている。
それでも、一行だけ読むことができた。
『真実を望む者のみ、先へ進め。』
ベスは静かにその文字を見つめる。
「警告……なのかな。」
「いや。」
ガルドは首を横に振った。
「試しているんだ。」
「ここへ来る資格があるかを。」
誰も言葉を返さなかった。
まるで山そのものが、自分たちを見定めているようだった。
山へ入って半日。
周囲の景色は、少しずつ変わり始める。
木々の葉は青ではなく、淡い銀色。
岩肌には光を宿した鉱石が埋まり、小川は透き通るほど澄んでいた。
「きれい……。」
リシアが思わず足を止める。
レオンも珍しく静かに辺りを見回した。
「魔物が出る場所とは思えねぇな。」
その瞬間。
ガルドが足を止める。
「……気配。」
全員が一斉に武器へ手を掛ける。
しかし、姿を現したのは魔物ではなかった。
白い毛並みの鹿。
角は水晶のように透き通り、人を恐れる様子もない。
鹿は灰鷹を一瞥すると、ゆっくり山奥へ歩いていく。
「……神獣?」
リシアが小さく呟く。
ガルドは静かに答えた。
「違う。」
「だが、この山には昔から普通ではない生き物が住むと言われている。」
ベスは鹿の背中を見送りながら思った。
この山には。
まだ誰も知らない命が息づいている。
その日の夕方。
灰鷹は崖の上で野営の準備を始めた。
レオンが焚き火を起こし、リシアが食事を用意する。
アイラは周囲を警戒していた。
ベスは少し離れた場所で、地面に残された痕跡を見つめる。
「……人の跡がある。」
ガルドが近づく。
「新しいのか?」
ベスはしゃがみ込み、土に残る足跡を見る。
「二日以内。」
「人数は十人前後。」
黒い鎧の集団か。
それとも別の誰かか。
誰も答えは持っていなかった。
夜。
焚き火を囲みながら、ガルドは一枚の古い地図を広げた。
そこには天穿山脈の大まかな地形だけが描かれている。
しかし中央部分だけは、ぽっかりと空白だった。
「記録がないんですか?」
ベスが尋ねる。
「違う。」
ガルドは静かに首を振った。
「残っていない。」
「残せなかった……と言った方が正しい。」
その言葉に全員が黙り込む。
地図に残せない場所。
それほどの場所が、この先にある。
深夜。
見張りをしていたベスは、ふと山頂の方角を見上げた。
月明かりの中。
山の奥で、蒼白い光がゆっくりと空へ昇っていく。
まるで誰かが灯火を掲げているようだった。
その光は一瞬だけ揺らぎ、静かに消える。
「……まただ。」
偶然ではない。
誰かがいる。
何かが動いている。
ベスは無意識に剣の柄へ手を添えた。
天穿山脈は、ただの秘境ではない。
この世界から忘れ去られた歴史が、今も静かに息づく場所だった。
そのことを。
山は何も語らずに教えていた。




