アルフェッカ
第一神殿を後にしてから、一週間。
灰鷹は北東に広がる《霧の森》へ足を踏み入れていた。
一年中、濃い霧に包まれたその森は、人々から「帰らずの森」と恐れられている。
「妙だな……。」
アイラが小さく呟く。
「魔物の気配はあるのに、襲ってこない。」
ガルドは静かに周囲を見渡す。
「全員、警戒を解くな。」
霧は深く、十歩先も見えない。
それでも、何者かの視線だけは確かに感じていた。
突然、霧の向こうから低い声が響く。
「……そこまでだ。」
全員が武器を構える。
霧がゆっくり流れ、一頭の巨大な狼が姿を現した。
漆黒の毛並み。
黄金に輝く瞳。
その姿は魔物と呼ぶには、あまりにも神々しかった。
しかし、その瞳には獣ではなく、一人の戦士のような理性が宿っていた。
「人間。」
「これ以上、この森へ踏み入るな。」
穏やかな声だった。
威圧ではなく、忠告だった。
レオンが驚きの声を漏らす。
「しゃべった……。」
狼は静かに視線を向ける。
「人の言葉を話せぬと思っていたか。」
「ならば、人もまた思い込みの生き物だ。」
その一言だけで、この存在が普通ではないことを全員が悟る。
ガルドが一歩前へ出た。
「名を聞こう。」
しばらく沈黙が流れる。
やがて狼は静かに答えた。
「ゼグ。」
「この森の守り手だ。」
その名を聞いた瞬間。
ベスの胸がざわついた。
理由は分からない。
初めて会うはずなのに、どこか懐かしい感覚がする。
ゼグもまた、ベスをじっと見つめていた。
「……その目。」
小さく呟く。
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
その時。
森の奥から地面を揺らす咆哮が響く。
ズォォォォォン!!
霧を押しのけるように現れたのは、異形の巨獣だった。
全身を黒い結晶が覆い、目は赤く濁っている。
理性の欠片もない。
「暴走種か。」
ゼグの表情が険しくなる。
「下がれ。」
だが暴走種は、人間もゼグも区別なく襲いかかった。
巨大な腕が振り下ろされる。
ベスは剣で受け流し、左腕の獣爪で軌道を逸らす。
「レオン!」
「右脚を!」
「任せろ!」
大剣が叩き込まれる。
アイラの矢が眼を狙い、エインが背後から腱を断つ。
リシアは負傷した仲間へ回復魔法を送り続けた。
そしてゼグは、その巨大な牙で暴走種の喉へ食らいつく。
人と狼。
互いに言葉は交わさない。
それでも呼吸は、不思議なほど噛み合っていた。
激戦の末、暴走種は静かに崩れ落ちた。
しかしゼグの肩には深い裂傷が残っていた。
リシアは迷わず近づく。
「治療する。」
ゼグは目を細める。
「我を……助けるのか。」
「目の前で苦しんでいる命を見捨てる理由はないよ。」
リシアは微笑みながら傷口へ手をかざした。
柔らかな光が傷を包む。
ゼグは静かに目を閉じた。
「……温かいな。」
その一言には、長い孤独が滲んでいた。
夕暮れ。
灰鷹が森を離れようとすると、ゼグがベスを呼び止めた。
「ベス。」
初めて名前で呼ばれた。
ベスは振り返る。
「生き証人に会ったな。」
その一言に、全員が息を呑む。
「知ってるのか?」
「知っている。」
「……長い付き合いだ。」
それ以上は語らない。
「お前は今、答えを探している。」
ベスは静かに頷いた。
「分からないことばかりだ。」
「神も。」
「魔物も。」
「この世界も。」
「全部。」
ゼグはゆっくりと近づき、その黄金の瞳でベスを見据えた。
「その迷いを忘れるな。」
「迷う者だけが、本当の答えへ辿り着ける。」
その言葉は、生き証人の言葉とどこか重なって聞こえた。
しばらく沈黙が続く。
やがてゼグは空を見上げ、小さく息をつく。
「ベス。」
「もし、お前が本当に答えへ辿り着いたなら。」
ベスは真っ直ぐにゼグを見る。
「その時は?」
ゼグは静かに微笑んだ。
狼とは思えない、どこか優しい笑みだった。
「今度は。」
「我がお前に会いに行く。」
「その時、お前へ我らの真実を話そう。」
ベスも微笑み返す。
「ああ。」
「約束だ。」
ゼグは一度だけ深く頷く。
「約束だ。」
霧が吹き抜ける。
その姿はゆっくりと霧へ溶けるように消えていった。
森を抜けた帰り道。
レオンが頭を掻く。
「今日一日で世界がひっくり返った気分だ。」
アイラも静かに頷く。
「魔物じゃなくて……。」
「一人の”誰か”と話していた気がする。」
ベスは振り返る。
霧の森はもう見えない。
それでも、あの黄金の瞳だけは胸に焼き付いていた。
「また会おう。」
誰にも聞こえない声で呟く。
風が吹く。
霧の向こうで、一頭の狼が静かに空を見上げていた。
その瞳は、長い年月の中で初めて「未来」を見つめているようだった。




