アルファルド
朝。
青嶺の宿に、柔らかな陽射しが差し込む。
久しぶりに静かな朝だった。
魔物の遠吠えもない。
波の音もない。
ベスは目を覚まえ、天井を見上げた。
「……帰ってきたんだな。」
自然と笑みがこぼれる。
食堂へ降りると、灰鷹の面々が揃っていた。
「遅いぞ、ベス。」
レオンが笑う。
「三か月一人旅したら、朝は弱くなるらしい。」
ベスが言い返すと、食堂は笑いに包まれた。
アイラは呆れたようにため息をつく。
「冗談まで覚えて帰ってきたのね。」
リシアは温かいスープを差し出した。
「たくさん食べて。」
「旅の間、ちゃんと食べてなかったでしょう?」
ベスは照れくさそうに受け取る。
「ありがとう。」
その一杯は、どんなご馳走よりも温かかった。
朝食の後。
ガルドは全員を中庭へ集めた。
「模擬戦を行う。」
その一言で、空気が引き締まる。
レオンが笑う。
「相手は?」
ガルドはベスを見る。
「お前だ。」
「俺ですか?」
「三か月の成果を見せろ。」
木剣が渡される。
向かい合う二人。
周囲には仲間たち。
ベスは深く息を吸う。
以前なら、勝とうと飛び込んでいた。
だが今は違う。
相手を見る。
呼吸を見る。
足運びを見る。
シオンの教え。
ガルドの教え。
旅で得たすべてを思い出す。
「始め!」
レオンの声と同時に動く。
ベスは飛び込まない。
半歩待つ。
ガルドの踏み込みに合わせ、身体を流す。
木剣が交わる。
乾いた音が響く。
以前なら弾き飛ばされていた一撃を、今は受け流せた。
仲間たちが息をのむ。
「……おお。」
エインが思わず声を漏らす。
ベスは続けて獣爪の動きを織り交ぜる。
右の剣で誘い、左で崩す。
ガルドの口元が、わずかに緩んだ。
「いい。」
その瞬間。
ガルドの速度が一段上がる。
ベスは必死に食らいつく。
五合。
十合。
十五合。
ついに木剣が宙を舞った。
ベスの手から離れ、地面へ転がる。
勝負あり。
静寂。
ベスは悔しそうに息を吐く。
「まだ届きませんね。」
ガルドは木剣を肩へ担ぐ。
「当然だ。」
仲間たちが笑う。
だが、ガルドは続けた。
「だが。」
その一言で全員が静かになる。
「三か月前なら、お前は十合も保たなかった。」
ベスは顔を上げる。
「今のお前は。」
「相手を倒すために戦っていない。」
「守るために戦っている。」
ガルドはゆっくりと頷いた。
「それが、お前の強さだ。」
その言葉に、誰よりもレオンが嬉しそうに笑った。
「団長が褒めた!」
「今日は雪でも降るんじゃないか!」
アイラが肘で小突く。
「静かにしなさい。」
皆が笑う。
その笑い声を聞きながら、ベスも笑っていた。
夕方。
宿へ戻る途中、ガルドがベスを呼び止める。
「少し歩くか。」
二人は城壁の上へ登る。
青嶺の街並みが夕日に染まっていた。
しばらく無言。
やがてガルドが口を開く。
「ベス。」
「はい。」
「お前は、まだ神を憎んでいるか。」
風が吹く。
ベスはすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、小さく頷く。
「……はい。」
「でも。」
「神を倒したい理由は、少し変わりました。」
ガルドは黙って聞く。
「昔は復讐でした。」
「今は。」
街を見下ろす。
笑い合う親子。
店を閉める商人。
走り回る子どもたち。
「この景色を、奪わせたくない。」
その答えを聞き、ガルドは静かに笑った。
「それでいい。」
それ以上は何も言わなかった。
その夜。
灰鷹の宿の屋根。
ベスは旅で集めた品を並べる。
白い花。
竹札。
竹の水筒。
風鈴。
方位磁針。
木のお守り。
そして、ユナから託された風鈴。
一つひとつを見つめながら、静かに呟く。
「みんな。」
「ちゃんと帰ってきたよ。」
夜風が吹く。
風鈴が重なって鳴る。
その優しい音は、旅で出会った人々の声のように、ベスの心へ静かに響いていた。
そして誰も知らない場所で、黒衣の男は夜空を見上げ、小さく微笑む。
「……ようやく。」
「ここからが、本当の始まりだ。」




