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バル  作者: 隣の猫
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アトラス



青嶺まで、あと十日。


朝靄の残る街道を、ベスとユナは並んで歩いていた。


言葉は少ない。


だが沈黙は心地よかった。


歩幅も、いつの間にか自然と揃っている。


すると、道が二つに分かれていた。


右は広く整備された街道。


左は細い山道。


立て札にはこう書かれている。


「右・青嶺への最短路」


「左・落石につき通行注意」


ベスは右へ向かおうとする。


その時だった。


遠くから、かすかな鐘の音が聞こえた。


一度。


二度。


三度。


ユナが立ち止まる。


「助けを呼ぶ鐘。」


ベスも耳を澄ます。


確かに、左の山道の奥から聞こえてくる。


「……どうする?」


ユナが尋ねる。


青嶺へ急げば、灰鷹との約束に間に合う。


山へ入れば、大きく時間を失うかもしれない。


ベスは立て札を見つめる。


そして空を見上げた。


「約束は守りたい。」


静かに言う。


「でも。」


「誰かの『今日』を見捨てて、自分の『約束』だけ守るのは違う気がする。」


そう言って左の山道へ踏み出した。


ユナは小さく笑う。


「やっぱり。」


「そうすると思った。」




山道を登ること一時間。


崩れた橋の前で、人々が立ち尽くしていた。


商隊だった。


荷馬車が谷へ落ちかけている。


橋を支える縄は一本だけ。


今にも切れそうだった。


「子どもが!」


母親の叫び。


荷馬車の中には、小さな男の子が閉じ込められている。


橋は不安定で、大人が渡れば崩れる。


ベスは迷わず剣を外した。


「ユナ!」


「分かってる。」


二人は言葉を交わさない。


ベスは獣爪を岩へ食い込ませ、崖を降りる。


ユナは橋の縄を刀で固定し、必死に支える。


ギシ……。


縄が悲鳴を上げる。


「急いで!」


ユナの額から汗が流れる。


ベスは荷馬車へ飛び移る。


「大丈夫。」


震える少年へ微笑む。


「一緒に帰ろう。」


少年を抱きかかえた瞬間。


バチンッ!!


縄が切れた。


橋が崩れる。


「ベス!」


ユナの叫び。


ベスは少年を抱いたまま宙へ投げる。


商人たちが受け止める。


その代わり、ベス自身は谷底へ落ちていく。


「ベス!!」


ユナは崖へ駆け寄る。


だが、その時。


ガンッ!!


左の獣爪が岩へ突き刺さった。


片腕だけで宙づりになる。


「くっ……!」


腕が軋む。


落ちる。


そう思った瞬間。


細い手が伸びた。


「掴んで!」


ユナだった。


ベスは手を伸ばす。


二人の指先が触れる。


しっかりと握る。


商人たちも駆け寄り、力を合わせる。


「せーの!」


全員で引き上げる。


ベスは地面へ転がり、大きく息を吐いた。


しばらく誰も言葉を発せなかった。


そして次の瞬間。


少年が泣きながらベスへ抱きついた。


「ありがとう……!」


その一言で、張りつめていた空気がほどけた。




夕方。


橋の修復を終えた商隊は、何度も礼を言って旅立っていく。


一人の老人がベスへ近づいた。


「若者。」


「これを持っていきなさい。」


差し出されたのは、小さな方位磁針だった。


真鍮でできた古い品。


「昔、息子が使っていた。」


「帰ってこなかった。」


老人は少しだけ寂しそうに笑う。


「だから今度は、お前さんが帰ってこい。」


ベスは静かに受け取る。


「……必ず。」




夜。


焚き火の前で、ユナがぽつりと言う。


「今日。」


「なんで自分が落ちたの?」


ベスは少し考えて笑う。


「考える暇がなかった。」


「体が勝手に動いた。」


ユナは呆れたようにため息をつく。


「そういうところ。」


「本当に困る。」


そう言いながら、そっとベスの左腕に新しい包帯を巻き直す。


その手つきは、とても優しかった。




空には満天の星。


ベスは老人にもらった方位磁針を手のひらに乗せる。


針は東を指していた。


「帰る場所がある。」


その言葉に、自分自身が少し驚く。


三か月前の自分なら、「復讐する場所」と言っていたはずだ。


今は違う。


灰鷹のみんな。


ガルド。


そして、この旅で出会った人たち。


帰りたいと思える場所が、少しずつ増えていた。


風が吹く。


胸元の風鈴が、小さく鳴った。


チリン――。
























その音は、旅の終わりが近いことを静かに知らせていた。

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