タイゲタ
青嶺まで、あと十五日。
街道は竹林を抜け、切り立った峡谷へと続いていた。
谷底には激しい川が流れ、岩肌には古い橋が一本だけ架かっている。
旅人の姿はない。
風だけが橋を揺らしていた。
ベスは自然と歩みを止める。
「……いる。」
気配が一つ。
隠そうともしていない。
橋の中央に、一人の男が立っていた。
黒い羽織。
腰には二本の黒刀。
その瞳は氷のように冷たい。
「待っていた。」
男は静かに口を開く。
「灰鷹のベス。」
「俺を知っているのか。」
「知る必要はない。」
男はゆっくりと刀へ手を添える。
「お前はここで終わる。」
ベスは剣を抜く。
左腕の獣爪を構える。
風が止んだ。
「誰の命令だ。」
男は小さく笑う。
「命令ではない。」
「興味だ。」
「神を憎む少年が、どこまで強いのか。」
その言葉を聞いた瞬間、ベスの瞳が鋭くなる。
「……神を知っているのか。」
「知っている。」
「だから殺す。」
男が消えた。
いや、速すぎて見えなかった。
キィンッ!!
火花が散る。
ベスは反射で剣を合わせる。
重い。
一撃ごとに腕が痺れる。
右。
左。
二本の刀が雨のように降り注ぐ。
受けるだけで精一杯だった。
(速い……!)
ベスは距離を取る。
呼吸を整える。
焦るな。
シオンの教え。
流せ。
受けるな。
男が再び踏み込む。
今度は真正面。
ベスは半歩だけ身体をずらす。
刀を受け流す。
そのまま獣爪で脇腹を狙う。
初めて男の表情が変わった。
「ほう。」
浅く切れた。
血が一筋流れる。
「初めてだ。」
「俺に傷をつけた若造は。」
しかし、それだけだった。
男の動きはさらに鋭くなる。
二刀が円を描く。
ベスは剣で受ける。
獣爪で逸らす。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、流れが見えた。
(ここだ!)
踏み込む。
全力の一撃。
しかし。
男は笑っていた。
「読める。」
刀の柄がベスの腹へめり込む。
「がっ……!」
息が止まる。
続く蹴り。
身体が橋の欄干へ叩きつけられる。
木が砕ける。
ベスは膝をついた。
立て。
立つんだ。
身体は悲鳴を上げる。
それでも立つ。
男はゆっくり近づく。
「悪くない。」
「だが、まだ足りん。」
刀が振り上げられる。
その瞬間だった。
カンッ!!
細い刀が男の刃を弾いた。
「そこまで。」
風と共に現れたのは、ユナだった。
男は眉をひそめる。
「退け。」
ユナは刀を構えたまま動かない。
「命令です。」
「今は殺すな、と。」
男は鼻で笑う。
「命令を盾にするか。」
「ええ。」
「今日は。」
静かな睨み合い。
やがて男は刀を鞘へ納めた。
「興が削がれた。」
去り際、ベスを一瞥する。
「覚えておけ。」
「今のお前は、守られた。」
「次はない。」
黒い外套が風へ溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
ベスは力尽き、その場へ座り込む。
ユナが無言で傷を確認する。
「……生きてる。」
「なんとか。」
苦笑するベス。
「情けないな。」
「負けた。」
ユナは首を横に振る。
「違う。」
「生き残った。」
その言葉に、ベスは目を閉じる。
勝てなかった。
でも、生きている。
その意味を、今はまだ理解できなかった。
夕暮れ。
ユナは薬草を傷へ巻きながら小さく言う。
「あの人の名前は、カゲロウ。」
「私より、ずっと強い。」
「そして……。」
少しだけ言葉を止める。
「昔の私の先生。」
ベスは驚く。
「先生?」
「だから分かる。」
ユナは空を見上げる。
「今のあなたじゃ勝てない。」
「でも。」
「いつかは分からない。」
ベスは悔しさを押し殺しながら頷く。
「ありがとう。」
「助けてくれて。」
ユナは少し照れたように視線を逸らす。
「勘違いしないで。」
「命令だから。」
そう言いながらも、その声は少しだけ柔らかかった。
夜。
二人は焚き火を囲む。
初めて、誰かと過ごす夜。
ベスは火を見つめながら呟く。
「……俺は弱い。」
ユナは静かに薪をくべる。
「うん。」
否定しない。
「でも。」
「弱いって言える人は、強くなれる。」
その一言に、ベスは小さく笑った。
雨の日の社で老人が言った言葉。
ガルドの教え。
シオンの言葉。
そしてユナの言葉。
旅で出会った人たちの声が、一つずつ胸の中で繋がっていく。
風が焚き火を優しく揺らした。
その夜、ベスは久しぶりに安心して眠ることができた。
そしてユナは、眠るベスを見つめながら、小さく呟く。
「……あなたは、本当に変な人。」
その横顔には、もう監視者だけの冷たさは残っていなかった。




