エレクトラ
レンと別れてから数日。
空は朝から重たい雲に覆われていた。
昼過ぎ。
ポツリ、と一粒の雨が落ちる。
やがて大粒の雨へ変わり、街道はあっという間に川のようになった。
「これは……まずいな。」
ベスは周囲を見回す。
少し離れた場所に、小さな古い社が見えた。
屋根は傷んでいたが、雨宿りには十分だった。
社の中へ入ると、すでに先客がいた。
旅装束の老人。
そして十歳ほどの少年。
少年は熱にうなされ、苦しそうに息をしている。
老人は何度も濡れた布を額へ当てていた。
「失礼します。」
ベスは頭を下げる。
老人も静かに頷いた。
「旅人か。」
「はい。」
「その子は……?」
老人は困ったように笑う。
「孫じゃ。」
「都で医者に診てもらう途中なんだが、この雨で足止めされてしまってな。」
少年の顔は赤く、呼吸も浅い。
ベスはリシアから預かった薬袋を思い出した。
「これ。」
袋を取り出し、老人へ差し出す。
「中央島の薬師にもらった薬です。」
「効くか分かりませんが……。」
老人は驚いた表情で受け取る。
「よいのか?」
「はい。」
「俺は元気ですから。」
老人は薬を飲ませ、少年は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
雨音だけが静かに響く。
やがて老人が口を開いた。
「お前さんは、何のために旅をしておる。」
ベスは答えに詰まる。
少し前までなら迷わなかった。
「復讐です。」
そう言えた。
だが今は違う。
村で出会った少女。
風鈴の村。
シオン。
レン。
様々な顔が浮かぶ。
「……まだ。」
「分かりません。」
それが今の正直な答えだった。
老人は優しく笑う。
「それでいい。」
「若いうちは、答えよりも迷いの方が大切じゃ。」
「迷うということは、立ち止まって考えている証拠だからな。」
ベスは静かにその言葉を胸へ刻む。
夕方。
雨が止み、空には大きな虹が架かった。
少年も熱が下がり、自分の足で立てるようになっていた。
「お兄ちゃん!」
少年が駆け寄ってくる。
「ありがとう!」
その笑顔は、どこか幼い頃の自分と重なった。
ベスは少年の頭を撫でる。
「元気になって良かった。」
老人は旅立つ前、腰の袋から小さな木札を取り出した。
表には古い文字。
裏には鳥の羽が彫られている。
「これは?」
「旅のお守りじゃ。」
「儂も若い頃、ある旅人にもらった。」
「今度は、お前さんの番だ。」
ベスは丁寧に受け取る。
旅の荷物が、また一つ増えた。
武器ではない。
思い出だった。
その夜。
一人で焚き火を囲む。
荷物を広げる。
白い花は押し花になっていた。
風鈴。
竹札。
竹の水筒。
木のお守り。
そして手入れされた剣。
どれも高価な物ではない。
けれど。
「全部、大事なものだ。」
そう呟いた時だった。
ガサッ。
森の奥で草が揺れる。
ベスはすぐに立ち上がる。
剣を抜く。
「誰だ。」
闇の中から現れたのは、一人の少女だった。
年齢は十六歳ほど。
黒髪を後ろで束ね、腰には細身の刀。
雨に濡れたまま、じっとベスを見つめている。
「……あなたが。」
少女は小さく呟く。
「灰鷹のベス。」
ベスは目を細める。
「どうして俺の名前を?」
少女は答えない。
その代わり、ゆっくりと刀へ手を添えた。
風が止む。
焚き火が揺れる。
静寂の中、二人は向かい合う。
だが少女の瞳には殺意ではなく、迷いが宿っていた。
「私は……。」
「あなたを見極めに来た。」
その一言だけを残し、少女は刀から手を離した。
名も告げぬまま、闇の中へ消えていく。
ベスは追わなかった。
あの瞳を見て分かった。
また会う。
そんな予感だけが、静かに胸へ残っていた。




