カフ
狼型の魔物と別れてから数日。
ベスは山を越え、竹林の奥深くへと足を踏み入れていた。
風が吹くたび、青々とした竹が波のように揺れる。
その音は、不思議と心を落ち着かせた。
しかし、その静寂を破る音が響く。
――カン。
――カン。
金属が打ち合う澄んだ音。
誰かが戦っている。
ベスは音のする方へ駆け出した。
竹林が開けた先には、小さな道場があった。
屋根は古く、壁もところどころ傷んでいる。
その庭で、一人の老人が木刀を振っていた。
相手はいない。
ただ、風へ向かって一太刀ずつ振るっている。
不思議なことに、竹の葉がその太刀筋を避けるように舞っていた。
「……すごい。」
思わず声が漏れる。
老人は振り返らずに言った。
「見ているだけでは、風は読めんぞ。」
ベスは驚く。
気配に気づかれていた。
「すみません。」
老人は木刀を肩に担ぎ、ようやく振り返った。
白髪を後ろで束ねた、小柄な男。
だが、その目は若者のように鋭い。
「旅人か。」
「はい。」
「名は?」
「ベスです。」
老人は少しだけ笑った。
「儂はシオン。」
「この道場の主だ。」
シオンはベスの腰の剣と左腕の獣爪を見て目を細めた。
「変わった戦い方をするな。」
「右で斬り、左で狩る。」
「……獣のようじゃ。」
ベスは少し照れくさそうに笑う。
「昔から、この戦い方なんです。」
「そうか。」
シオンは木刀を一本放り投げた。
「なら、見せてみろ。」
模擬戦が始まる。
ベスは深呼吸を一つ。
そして踏み込む。
剣を振る。
獣爪を繋ぐ。
波のような連撃。
以前よりも滑らかになった動き。
しかし。
カン。
軽い音。
シオンの木刀が、すべてを受け流す。
速くない。
力強くもない。
ただ、そこにあるだけ。
「まだ力で押そうとしておる。」
ベスは踏み込み直す。
低く潜る。
獣爪で足を狙う。
だが、その瞬間にはシオンは半歩だけ横へ動いていた。
空を切る。
「焦るな。」
木刀がベスの肩へ軽く触れる。
一本。
負けだった。
「悔しいか。」
シオンが尋ねる。
ベスは息を整えながら頷く。
「はい。」
「なら良い。」
シオンは庭へ座り込む。
「悔しさは、自分が前へ進みたい証だ。」
「負けを恥じるな。」
「負けから目を逸らすことを恥じろ。」
その言葉は、ガルドの教えにもどこか似ていた。
その夜。
ベスは道場へ泊めてもらうことになった。
夕食は質素だった。
白米。
焼き魚。
味噌のような汁物。
シオンは静かに箸を動かす。
「旅は楽しいか。」
突然の問い。
ベスは少し考えて答えた。
「楽しいです。」
「でも、苦しいことの方が多いです。」
シオンは笑う。
「だから旅は良い。」
「苦しまぬ旅など、心を育てん。」
翌朝。
夜明け前。
シオンはベスを竹林へ連れ出した。
朝露が葉を濡らしている。
「剣を抜け。」
ベスは構える。
「斬ってみろ。」
目の前には一本の竹。
細く、真っ直ぐ伸びている。
ベスは振り下ろす。
竹は切れた。
だが、葉が大きく揺れた。
「もう一度。」
二度。
三度。
何度やっても同じ。
シオンは一本の竹の前へ立つ。
木刀をゆっくり振る。
スッ。
音もなく竹が割れる。
葉はほとんど揺れない。
ベスは目を見開いた。
「どうして……。」
シオンは空を見上げる。
「風に逆らえば、風は暴れる。」
「風に寄り添えば、風は道を譲る。」
「剣も同じじゃ。」
その日の夕方。
ベスは道場を後にする。
別れ際、シオンは一枚の竹札を渡した。
そこには風を表す古い文字が刻まれていた。
「迷った時は、それを見るがよい。」
「答えは書いておらん。」
「だが、自分へ問いかけることは忘れぬ。」
ベスは深く頭を下げる。
「ありがとうございました。」
「また来ます。」
シオンは笑って手を振った。
「その頃には、今より少しだけ強くなっておれ。」
竹林を抜けたベスは、竹札を握りしめながら歩く。
その背中は、一人旅を始めた頃より少しだけ大きく見えた。
遠くの丘の上では黒衣の男が静かに頷く。
「師に恵まれる。」
「それも、お前の強さだ。」
そう呟くと、男は夕焼けの中へ姿を消した。
風は東へ流れ続ける。
ベスの旅もまた、新たな学びを胸に続いていくのだった。




