ハマル
風鈴の村を後にして、さらに二週間。
ベスは蒼嵐の山岳地帯を歩いていた。
道は険しく、人影も少ない。
夜になれば魔物の遠吠えが響き、焚き火の火だけが闇を照らす。
その日も、岩陰で休もうとした時だった。
「……?」
かすかなうめき声が聞こえた。
人ではない。
獣のような低い声。
ベスは剣の柄に手を添え、慎重に近づく。
倒れていたのは、一体の魔物だった。
狼によく似た姿。
しかし体は傷だらけで、脇腹には深い槍傷がある。
呼吸も弱々しい。
「魔物……。」
反射的に剣を抜く。
今なら簡単に討てる。
村を襲う前に倒せば、それで済む。
そう思った、その時。
魔物がゆっくりと顔を上げた。
その目に宿っていたのは、怒りではなかった。
怯えだった。
まるで、人間を恐れる子どものような目。
ベスの手が止まる。
「どうして……。」
その瞬間、森の奥から怒号が響いた。
「いたぞ!」
鎧を着た男たちが駆けてくる。
槍を構え、魔物を囲む。
「若いの! 離れろ!」
隊長らしき男が叫ぶ。
「そいつは村を襲った魔物だ!」
ベスは魔物を見る。
傷の具合からして、まともに動ける状態ではない。
本当に、この一体が村を襲ったのか。
違和感が胸をよぎる。
「どけ!」
兵士が槍を構える。
その瞬間。
魔物は最後の力を振り絞り、岩陰へ這って逃げようとした。
だが足が動かない。
兵士が槍を振り下ろす。
カンッ!
金属音が響く。
ベスの剣が槍を受け止めていた。
「何のつもりだ!」
兵士たちが驚く。
ベスも、自分が何をしているのか分からなかった。
「少しだけ……。」
「少しだけ待ってください。」
「この魔物、本当に村を襲ったんですか?」
隊長は顔をしかめる。
「見た者はいない。」
「だが、この辺りに魔物がいた。それで十分だ。」
その言葉に、ベスは息をのむ。
「それだけで……?」
沈黙が流れる。
その時だった。
山の奥から咆哮が轟く。
ドォォォン!
地面が震える。
木々をなぎ倒しながら現れたのは、三倍はあろうかという巨大な熊型魔物だった。
全身が黒い甲殻に覆われ、目は血のように赤い。
「まずい!」
兵士たちの顔色が変わる。
「こいつが……!」
巨大な魔物は迷うことなく兵士たちへ突進した。
「散開!」
隊長が叫ぶ。
しかし間に合わない。
一人の兵士が吹き飛ばされる。
ベスは走った。
右手の剣で爪を受け流し、左の獣爪で腕を弾く。
重い。
今まで戦ったどの魔物よりも重い。
それでも時間を稼ぐ。
兵士たちが態勢を立て直す。
「今だ!」
隊長の号令で、一斉に槍が突き出される。
熊型魔物は咆哮を上げながら倒れた。
静寂。
兵士たちは肩で息をしていた。
ふと振り返る。
傷ついた狼型魔物は、もういなかった。
血痕だけが山道に続いている。
兵士の一人が呟く。
「逃げたか……。」
ベスはその血痕を見つめたまま動かなかった。
本当に倒すべきだったのは、あの狼だったのか。
答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
魔物にも違いがある。
それを、自分は知らなかった。
夕暮れ。
隊長がベスの隣へ座る。
「悪かった。」
意外な言葉だった。
「俺も決めつけていた。」
ベスは静かに首を振る。
「俺もです。」
「魔物は全部同じだと思っていました。」
隊長は焚き火を見つめる。
「戦場じゃ、考える時間は少ない。」
「だからこそ、考えることをやめちゃいけないんだな。」
二人はしばらく無言で火を見つめていた。
その夜。
森の奥深く。
傷ついた狼型魔物は、小さな洞窟へ戻っていた。
そこには、生まれたばかりの子どもが三匹。
母親は静かに子どもたちへ寄り添う。
外では風が吹く。
遠くから、一人の男がその光景を見つめていた。
黒衣の男だった。
「……気づいたか。」
彼は小さく微笑む。
「世界は、白と黒だけじゃない。」
その言葉は、誰にも届くことなく夜へ溶けていった。
月明かりは静かに森を照らし続ける。
そしてベスの旅は、「敵とは何か」という新たな問いを胸に、さらに続いていくのだった。




