アルフェラッツ
白い花をもらった村を後にして、十日が過ぎた。
ベスは街道を離れ、山あいの細い道を歩いていた。
蒼嵐の風は心地よく、竹林を渡る風が涼しい音を運んでくる。
──チリン。
小さな音だった。
ベスは足を止める。
竹で作られた風鈴。
軒先にいくつも吊るされ、風に揺れていた。
「きれいな音だ……。」
山の斜面に、小さな村が見えた。
家々の軒先には、どの家にも風鈴が下がっている。
風が吹くたび、村中に優しい音色が広がっていた。
村へ入ると、人々はどこか暗い表情をしていた。
子どもたちも遊んでいない。
畑にも人影は少ない。
「何かあったんですか?」
村長らしき老人へ尋ねる。
老人は困ったように笑う。
「もうすぐ収穫なんじゃが……。」
「山の崖が崩れそうでな。」
見上げる。
確かに村の裏山には、大きな亀裂が走っていた。
「あれじゃ畑へも行けん。」
「兵も来られん。」
「皆、諦め始めておる。」
その夜。
ベスは一人で崖を見に行く。
剣で岩を叩く。
乾いた音。
土は緩んでいる。
(雨が降れば崩れる。)
魔物の気配もある。
だが今は、それより崖の方が危険だった。
「どうすれば……。」
戦う相手がいない。
剣では解決できない。
初めての状況だった。
翌朝。
ベスは村人たちを集めた。
「皆さん。」
「力を貸してください。」
村人たちは顔を見合わせる。
「崖の上にある大きな岩を動かします。」
「水の流れを変えれば、崩れにくくなるはずです。」
一人では無理だ。
でも皆ならできる。
最初は誰も動かなかった。
すると、昨日助けてもらった少年が前へ出た。
「僕、やる。」
その一言をきっかけに、大人たちも立ち上がる。
「よし!」
「やってみるか!」
丸一日かけて岩を動かす。
竹を切り、てこの原理で押し上げる。
女性たちは土嚢を作る。
子どもたちは水を運ぶ。
ベスは誰よりも汗を流し、誰よりも泥だらけになった。
夕暮れ。
最後の岩が動く。
ゴゴゴ……
水が新しい流れを作り、崖の土をゆっくりと逃がしていく。
「止まった……。」
村人が呟く。
崩れかけていた斜面は、静かに落ち着きを取り戻していた。
歓声が上がる。
「やった!」
「助かった!」
「今年も畑を守れる!」
ベスはその場に座り込み、大きく息を吐いた。
魔物は一体も倒していない。
それでも、誰かを守れた。
その夜。
村では小さな宴が開かれた。
豪華ではない。
山菜と焼き魚、それに温かい汁物。
だが、ベスには何よりのご馳走だった。
村長が盃を掲げる。
「剣で守る者は多い。」
「だが、鍬を持って守ってくれた旅人は初めてじゃ。」
皆が笑う。
ベスも照れくさそうに笑った。
宴の終わり。
村の職人が、一つの風鈴を持ってきた。
青い竹で作られた、小さな風鈴。
「持っていきなさい。」
「これは、この村で一番よく鳴る風鈴じゃ。」
「旅で迷った時。」
「この音を思い出せ。」
ベスは両手で受け取る。
「……ありがとうございます。」
風が吹く。
チリン。
澄んだ音が夜空へ響いた。
翌朝。
旅立つベスを、村中の人々が見送る。
あの少年が駆け寄ってきた。
「僕も大きくなったら、お兄ちゃんみたいになる!」
ベスはしゃがみ込み、少年の頭を優しく撫でる。
「俺より、もっとすごくなれ。」
少年は力強く頷いた。
その姿を見て、ベスは少しだけ父の気持ちが分かった気がした。
村を離れて半日。
山道を歩いていると、不意に獣爪が小さく震えた。
「……?」
周囲に魔物の気配はない。
それでも震えは止まらない。
ベスは辺りを見回す。
竹林の奥。
一瞬だけ、人影が見えた。
黒い外套。
だが次の瞬間には消えていた。
「誰だ!」
返事はない。
風だけが竹を揺らす。
しかし、その人物は黒衣の男ではなかった。
どこかで見たことのある、蛇が尾を噛む紋章を袖に刻んだ者だった。
ベスはまだ、その意味を知らない。
だが運命は、静かに彼へ近づいていた。




