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バル  作者: 隣の猫
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タームズ




ベスは手を伸ばした。


淡く揺れる光。


残された光。


その輝きは。


まるで長い時間を待ち続けた誰かの想い、そのものだった。


指先が触れる。


その瞬間。


世界の輪郭がほどけた。


音が消える。


地下水路の冷たい湿気が、ふっと遠のく。


鉄錆の匂い。


血の匂い。


濡れた石の重い空気。


それらすべてが、指の隙間から抜け落ちていく。


代わりに。


何もない“空白”だけが広がった。





次の瞬間。


空気が変わる。


冷たさが消え、代わりに柔らかな温度が肌を包む。


頬を撫でるのは、湿った地下の風ではない。


乾いた草を揺らす、軽い風。


土の匂い。


遠くで揺れる緑の香り。


そして、胸の奥に残るわずかな浮遊感。


まるで身体だけが置き去りにされ、意識だけがどこかへ引き上げられていくような感覚。


視界が白くほどけた。


音も、重さも、境界も消えていく。


ただ一つ。


呼ばれている。


その感覚だけが、確かに残った。





次に目を開けると。


そこは、見慣れた草原だった。


青い空。


どこまでも続く風。


揺れる草花。


地下とは違う、乾いた土の匂いと、太陽に温められた大地の匂いが混ざり合っている。


風は冷たくない。


むしろ、肌を撫でるたびにわずかな温もりを残していく。


世界そのものが、ゆっくりと呼吸している場所。


そして。


少し離れた場所に。


巨大な狼が立っていた。


「……フェンリル。」


以前より。


さらに輪郭が鮮明になっている。


銀色の毛並みが風に揺れ、草原の光を受けて淡く輝く。


その存在は、確かに“そこに在る”という重みを増していた。


フェンリルが静かに歩み寄る。


草が踏まれる音はしない。


ただ風だけが、その動きをなぞるように揺れる。


『光を得たか。』


ベスは頷く。


「ああ。」


フェンリルは左腕を見る。


刻まれた紋様。


増えた光。


そして。


ゆっくりとベスを見る。


『……牙に触れたな。』


ベスの肩が僅かに震えた。


地上での出来事が蘇る。


怒り。


恐怖。


守れないという焦り。


そして。


自分でも抑えられなかった衝動。


「……あれは。」


言葉が続かない。


フェンリルは静かに空を見上げる。


『牙は、怒りから生まれる。』


その言葉に。


ベスの瞳が揺れた。


石碑。


あの日見た文字。


フェンリルは続ける。


『それは、真実だ。』


一拍。


風が草原を渡る。


草が波のように揺れ、遠くで鳥の気配がかすかに鳴いた。


『だが。』


その声は低く、重くなった。


子を叱る親のように。


『怒りは、牙を振るう理由にならぬ。』


『怒りだけでは。』


『何も、救えぬ。』


ベスは息を呑む。


『お前は今日。』


『守りたいと願った。』


『だが先に立ったのは、怒りだ。』


『そのままでは。』


フェンリルは静かに目を細める。


『牙は、お前を喰らう。』


草原が静まり返る。


風の音だけが、やけに遠く響いた。


『牙を継ぐ者よ。』


『力を求めるな。』


『覚悟を継げ。』


その言葉が。


胸の奥へ静かに落ちた。


怒りは消えない。


消す必要もない。


だが。


怒りのために牙を振るうのではない。


守ると決めた覚悟が。


牙を導く。


それが。


フェンリルの継承者。


「……分かった。」


小さく。


だが確かな声だった。


フェンリルは静かに目を閉じる。


『また一つ。』


『近付いた。』


風が吹く。


銀色の毛並みが揺れ。


その姿はゆっくりと光へ溶けていく。


景色が白くほどけた。


「……。」


ベスは目を開ける。


地下水路。


湿った空気。


鉄と血の匂い。


剣戟の余韻だけが、現実に引き戻す。


残された光は静かに消えていた。


左腕を見る。


蒼白い紋様。


その隣へ。


新たな紋様が一つ。


静かに刻まれていた。


ベスは拳を握る。


もう。


怒りだけでは牙は振るわない。


その覚悟だけが。




















静かに胸へ刻まれていた。

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