メンカル
灰鷹を乗せた帆船は、中央島を離れて十日が過ぎていた。
海は穏やかだった。
帆は風を受け、船は順調に東へ進んでいく。
甲板では団員たちが交代で見張りに立ち、船員たちは帆の調整を続けている。
レオンは退屈そうに欠伸をし、
アイラは海鳥を眺め、
リシアは薬袋を整理していた。
ベスは船首へ立ち、遥か水平線を見つめる。
まだ見ぬ東の大陸《蒼嵐》。
その景色を思い浮かべ、小さく息を吐いた。
夕暮れ。
見張りに立っていた団員が空を見上げる。
「……空がおかしい。」
西の空だけが黒く染まっていた。
雷鳴。
だが雨は降らない。
海だけが、不自然に波立ち始める。
ガルドも甲板へ上がり、空を見つめた。
「総員、備えろ。」
短い命令。
船員たちは慌ただしく帆を畳み始める。
その時だった。
ゴォォォォ……
海の底から、低いうなり声が響く。
次の瞬間。
巨大な水柱が船のすぐ横で噴き上がった。
「海魔だ!」
誰かが叫ぶ。
青黒い鱗を持つ巨大な海蛇が、その長い身体を海面から現した。
赤い瞳だけが、不気味に光っている。
「迎え撃て!」
ガルドの号令が飛ぶ。
灰鷹の団員たちが一斉に動く。
レオンとベスが前へ飛び出し、
アイラの矢が風を裂く。
リシアは負傷した船員を助けながら後方を支える。
海魔の尾が船体を叩きつける。
轟音。
船が大きく揺れる。
さらに二撃目。
帆柱が一本折れた。
「踏ん張れ!」
ガルドが叫ぶ。
その瞬間だった。
今までで最大の波が船を飲み込む。
甲板が大きく傾く。
ベスは船員を庇って飛び出した。
「危ない!」
船員を突き飛ばした、その直後。
濁流がベスの身体を飲み込んだ。
「ベス!」
レオンが手を伸ばす。
あと少し。
指先は届かなかった。
ベスの姿は巨大な波の向こうへ消えていく。
「団長!」
ガルドは海へ飛び込もうとする。
しかし次の瞬間、さらに大波が船全体を襲った。
船体が悲鳴を上げる。
船を失えば、乗っている全員が海へ投げ出される。
ガルドは歯を食いしばり、剣を握り締めた。
「……ベス!」
その叫びは嵐へ飲み込まれた。
冷たい。
暗い。
息ができない。
ベスは必死にもがく。
右手には剣。
左腕には獣爪。
それだけは決して離さない。
意識が遠のく。
最後に見えたのは、稲妻に照らされた灰色の空だった。
どれほど流されたのか。
波の音で目を覚ます。
砂浜だった。
身体中が痛む。
荷物のほとんどは流されていた。
だが剣はある。
獣爪もある。
周囲を見回す。
船の破片だけが静かに浜へ流れ着いていた。
「みんな!」
何度叫んでも返事はない。
夕日だけが海を赤く染めていた。
数日後。
港町。
ようやく辿り着いたベスは、町役場で王国の伝令と出会う。
「灰鷹の者か。」
伝令は安堵したように頷いた。
「船団遭難の報は届いている。」
「灰鷹も無事だ。」
その一言だけで、ベスの胸は軽くなった。
「団長たちは?」
「東の各地へ到着し、任務を継続している。」
「お前だけが行方不明だった。」
伝令は地図を広げる。
蒼嵐の中央。
大きな都市を指差した。
「王国からの正式命令だ。」
「散り散りになった者は、それぞれ旅を続け、中央都市《青嶺》へ向かえ。」
「三か月以内に集結。」
ベスは地図を見つめる。
ここから青嶺までは、およそ三か月。
「……分かりました。」
短く答えた。
翌朝。
宿屋の主人が竹で作られた水筒を手渡す。
「蒼嵐じゃ丈夫で長持ちする。」
「持っていきな。」
ベスは深く頭を下げる。
剣を背負う。
獣爪を確かめる。
そして一人、東へ続く街道を歩き始めた。
仲間たちは、それぞれの場所で戦っている。
ならば、自分も前へ進むだけだ。
東の風が静かに吹く。
ここから始まる三か月。
誰にも頼れない旅が、静かに幕を開けた。




