ポー
「猫さん、待って!」
ノアの声が響く。
灰猫は走っていた。
いつもなら。
昼間は日当たりのいい場所で丸くなり。
呼ばれても少し遅れて振り返る。
そんな猫だった。
けれど。
今は違う。
迷いなく。
焼けた街の奥へ向かっている。
「猫さん!」
ノアは小さな足で必死に追いかける。
「どうしたの?」
「何かあったの?」
灰猫は答えない。
ただ耳を立て。
風の流れを読むように進んでいく。
街の中央へ着く。
灰猫は足を止めた。
目を閉じる。
静かに。
何かを探しているようだった。
ノアは隣で首を傾げる。
「……猫さん?」
数秒後。
灰猫の目が開く。
「遅かったか。」
小さな呟き。
ノアの表情が変わる。
「何が?」
灰猫は空を見る。
風が変わっていた。
焼けた街の匂い。
その奥に混じる。
覚えのある気配。
「黒い霧じゃ。」
ノアは息を呑む。
灰猫の尻尾がゆっくり揺れる。
怒っている時の動きだった。
「また来る。」
「この場所へ。」
ノアは灰猫を見る。
いつものように眠そうな顔ではない。
冗談を言う時の声でもない。
小さな身体から。
強い力が感じられた。
「猫さん……。」
灰猫はノアを見る。
「ノア。」
「はい。」
「ここから動くなとは言わん。」
「じゃが。」
一瞬だけ目を細める。
「無茶だけはするでないぞ。」
ノアは頷く。
「猫さんも。」
灰猫は少しだけ笑う。
「わしは大丈夫じゃ。」
そして。
再び前を見る。
黒く染まり始めた空へ。
「次は許さぬ。」
「……ノアの声だ。」
鍛冶屋の店内。
ベスが顔を上げた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ガルドが椅子を蹴るように立ち上がる。
「行くぞ。」
迷いはなかった。
全員が外へ飛び出す。
扉が開いた瞬間。
空気が“重く”なった。
音が消えている。
人の声も、鉄を打つ音も、風すらも。
世界から切り取られたような静寂。
ベスの足が止まる。
「……何だ、これ。」
空を見上げる。
そこにあったのは、黒。
雲ではない。
霧でもない。
“落ちてくる闇”だった。
ゆっくりと、街へ降りている。
「……虚無の使徒。」
ガルドの声が低く沈む。
街の中央。
そこに“それ”は立っていた。
灰猫。
だが、誰もすぐにそれを猫だと認識できなかった。
空気が違う。
その周囲だけ、風が止まっている。
音が死んでいる。
まるで世界が一歩引いているようだった。
ノアが小さく息を呑む。
「……猫さん。」
呼びかけても、返事はない。
灰猫は動かない。
ただ一点を見ている。
黒い霧の“奥”。
その視線は、揺れない。
瞬きすらない。
ベスは無意識に剣の柄へ手をかけたまま、動けなかった。
(……違う)
(いつもの猫じゃない)
黒い霧が地面に触れた瞬間。
“影”が生まれた。
一人。
また一人。
十の気配が、街に立つ。
黒い外套。
黒い仮面。
虚無の使徒。
その中心の男が、ゆっくりと街を見渡す。
「まだ残っていたか。」
声は冷たい。
感情がない。
「盟主様の命だ。」
「この街に残るものを、すべて消す。」
その言葉が落ちた瞬間だった。
灰猫の尻尾が、わずかに動いた。
一度だけ。
“空気が割れた”。
ベスの背筋に寒気が走る。
(来る)
理由ではない。
本能だった。
灰猫が、一歩踏み出す。
その一歩で、地面の砂が“沈む”。
音が遅れて聞こえる。
「……。」
小さな身体。
だが、その存在だけが異様に重い。
視線が上がる。
虚無の使徒たちへ。
その目は、怒っていない。
叫んでもいない。
ただ――
“許していない”。
それだけだった。
「ここは。」
声は低い。
だが、街全体に響いた。
「お主らが踏み入れてよい場所ではない。」
一瞬。
虚無の使徒の一人が笑う。
「猫が何を――」
言い終わる前だった。
灰猫の右手が“消えた”。
次の瞬間。
爆ぜるような衝撃。
一人の使徒が、何が起きたかも分からぬまま吹き飛ぶ。
石畳が砕ける。
黒い霧が裂ける。
遅れて音が来る。
ベスの目が見開かれる。
「……速い、なんてもんじゃない」
灰猫は何事もなかったように。
ただ、前を見ている。
その瞳だけが、静かに燃えていた。
「二度目はない。」
その一言で。
街の空気が、完全に変わった。
西の街で。
“守る者”が牙を剥いた。




