サダルメリク
白霧の神殿から戻って数日。
ベスは神殿で見た出来事を胸にしまいながら、いつも通り訓練を続けていた。
約束は守る。
誰にも話さない。
だが、獣爪を見るたびに、あの鼓動が頭をよぎる。
「……何なんだ、お前は。」
左腕を見つめても、答えは返ってこない。
その日の昼。
中央島の王都は、不思議な熱気に包まれていた。
市場には人が集まり、広場では兵士たちが道を空けている。
「何かあるんですか?」
ベスが近くの兵士へ尋ねる。
「今日は珍しい客が来ている。」
「昔、王国で名を知られた剣士だ。」
その言葉に、周囲がざわめく。
「まだ現役なのか?」
「久しぶりに見たな。」
やがて、一人の老人が広場へ歩いてきた。
派手な鎧は着ていない。
白い外套。
腰には一本の長剣。
年齢は六十を越えているように見える。
しかし。
その歩き方を見た瞬間。
ベスは息を呑んだ。
「……強い。」
ただ歩いているだけなのに、隙が一つもない。
自然体。
それだけだった。
ガルドも静かに頭を下げる。
「お久しぶりです。」
老人は穏やかに笑う。
「ガルドか。」
「まだ剣を握っているとはな。」
老人は若い戦士たちを見回した。
「誰か、一太刀だけ付き合ってくれる者はいるか。」
一瞬、静まり返る。
誰も名乗り出ない。
その時だった。
「俺が行きます。」
ベスだった。
ガルドが少しだけ目を細める。
老人は優しく笑った。
「勇気があるな。」
「名前は?」
「ベスです。」
「そうか。」
「では始めよう。」
広場の中央。
二人は向かい合う。
観客が息を呑む。
「始め!」
合図と同時に、ベスは動いた。
低く踏み込む。
右手の剣。
左腕の獣爪。
今できる最高の連撃。
だが。
老人は動かなかった。
ただ剣を少し傾ける。
カン。
小さな音。
次の瞬間。
ベスの剣は流され、
身体の軌道ごと崩されていた。
「……え?」
何が起きたのか分からない。
老人の剣が、静かにベスの喉元へ添えられる。
「終わりだ。」
静寂。
たった一太刀。
それだけだった。
ベスは立ち上がる。
悔しさより、驚きが大きかった。
「今のは……。」
老人は剣を鞘へ戻す。
「力で止めようとした。」
「だから流された。」
その言葉に、ベスは老人の教えを思い出す。
『身体で戦え。』
老人は続ける。
「相手の力とぶつかるな。」
「受け入れろ。」
「そして流せ。」
「川と同じだ。」
ベスは深く頭を下げる。
「ありがとうございました。」
老人は微笑んだ。
「いい目をしている。」
「焦るな。」
「その剣は、まだ伸びる。」
その夜。
ガルドは老人と静かに話していた。
「弟子か。」
老人が笑う。
「ええ。」
「どう見えました。」
老人は少し考える。
「面白い少年だ。」
「獣のように戦う。」
「だが、守ろうとしている。」
「普通なら、どちらかへ偏る。」
「しかし、あの少年は両方を抱えようとしている。」
ガルドは静かに杯を置いた。
「危ういですか。」
老人は首を横に振る。
「だから伸びる。」
少し間を置く。
「ただ。」
「いつか選ぶ時は来るだろう。」
「復讐か。」
「守ることか。」
ガルドは何も返さなかった。
翌朝。
ベスは一人、海辺へ向かっていた。
昨日の一太刀が頭から離れない。
砂浜へ木の枝を立てる。
何度も剣を振る。
違う。
また違う。
「……分からない。」
その時。
波が静かに打ち寄せた。
ザァ……。
寄せては返す。
止まらない。
力まず、流れ続ける。
ベスは波を見つめたまま、小さく笑った。
「そういうことか。」
剣を構える。
今度は力を抜く。
踏み込みも自然に。
右の剣が流れ、
左の獣爪が追う。
止まらない。
一つの動きとして繋がる。
枝が音もなく二つに割れた。
ベスは目を見開く。
「今の……。」
ほんの一瞬。
だが確かに、今までとは違う感覚だった。
遠くの岩場。
黒衣の男が腕を組み、その様子を静かに見つめていた。
「覚え始めたか。」
それだけ呟く。
表情に感情はない。
ただ。
確認するように。
ベスの成長を見届けていた。
風が吹く。
黒い外套が揺れる。
男は誰にも気付かれぬまま、その場を去った。
海には朝日が昇る。
新しい一日とともに、
ベスの剣もまた、
新しい段階へ踏み出そうとしていた。




