アン
黒い霧が揺れる。
大樹の神殿前。
木々は密に立ち並び、視界を細かく分断していた。
枝葉の隙間から落ちる光が、黒い霧の中で途切れ途切れに砕ける。
その中心で、ベスは剣を構えていた。
正面。
約十歩先。
虚無の使徒幹部。
武器はない。
ただ黒い霧を纏った両手だけを、だらりと下ろしている。
次の瞬間。
幹部の姿が“消えた”。
ベスの視線が即座に右へ跳ぶ。
そこにはいない。
気配が一瞬遅れて背後へ流れる。
ベスは振り向きながら剣を横に払う。
ガギィィン!!
金属音。
背後から伸びた黒い拳を、剣が真正面で受け止めていた。
衝撃が腕を通り、肩へ抜ける。
重い。
だが押し切られない。
ベスはそのまま剣を押し返す。
幹部の身体がわずかに後ろへ滑る。
──その瞬間。
幹部の姿が“ずれた”。
後退ではない。
横。
左側の木の幹。
幹部はそこに手を伸ばし、指を深く食い込ませる。
木を支点に、身体を強引に引き寄せる。
軌道が折れる。
直線ではない。
円でもない。
木を中心にした“折れ曲がる動き”。
そのまま空中で身体が回転し、蹴りが放たれる。
ベスは一歩引きながら上体を反らす。
風圧が頬を裂くように通過する。
背後の木の幹が、衝撃だけで軋んだ。
幹部はそのまま枝へ着地する。
音はほとんどない。
重さを感じさせない着地。
次の瞬間には、別の枝へ跳んでいる。
上。
右。
左。
木々の間を“地面のように”使って移動している。
ベスは目を細める。
速いのではない。
位置が固定されない。
読んだ瞬間に“そこにいない”。
幹部が枝を蹴る。
身体が斜めに落ちる。
その落下の途中で、黒い拳が振り下ろされる。
ベスは剣で受ける。
ガギィィン!!
今度は上からの圧。
地面が沈む。
同時に、左腕が反応する。
銀色の獣爪。
フェンリルの前脚が顕現し、横からの衝撃を受け止める。
ガギィィン!!
二重の衝撃。
地面に亀裂が走る。
だが幹部は止まらない。
着地と同時に、黒い霧が地面へ広がる。
霧は“影”ではなく“層”のように重なり、木の根元や幹の裏へ入り込む。
次の瞬間。
地面の影から刃が生まれる。
木の裏から拳が伸びる。
枝の上から蹴りが落ちる。
上下左右が同時に崩れる。
ベスは一歩踏み込む。
剣で正面の刃を弾く。
一つ。
二つ。
三つ。
同時に左腕で横の拳を受ける。
フェンリルの爪が地面を抉り、衝撃を殺す。
背後へ回り込んだ影は、身体を捻って回避。
だが完全には避けきれない。
肩を黒い衝撃が掠める。
浅い。
しかし確実に“当ててくる”。
幹部は距離を取らない。
むしろ木を掴み、さらに上へ登る。
枝を蹴る。
空中で方向を変える。
落下と跳躍が連続する。
地面を使わない戦い。
森そのものが“足場”になっている。
ベスは追うように踏み込む。
剣を振り上げる。
幹部は枝から枝へ跳び、軌道をずらす。
刃は外套をかすめるだけで止まる。
あと一歩。
だがその“一歩”が常に消える。
再び距離が開く。
黒い霧の中。
ベスは剣を構え直す。
幹部は枝の上で静止している。
呼吸は乱れていない。
傷は浅い。
森の中。
影と銀。
位置は固定されないまま、次の瞬間の衝突だけが静かに積み上がっていく。




