トゥ
黒い霧が揺れる。
その中から。
短剣の虚無の使徒が消えた。
速い。
人の目で追える速度ではない。
次の瞬間。
背後。
刃が迫る。
しかし。
アイラは動かなかった。
弦へ指を掛ける。
僅かな音。
弓が鳴る。
その瞬間。
風が変わった。
周囲から吹いていた風。
木々の間を抜けていた風。
大地を撫でていた風。
全てが集まる。
一方向ではない。
あらゆる角度。
死角から。
無数の風の矢が生まれる。
短剣の使徒が姿を現す。
黒い霧が揺らぐ。
その身体を覆っていた霧が、
風によって裂かれていく。
「……。」
初めて。
相手の動きが止まった。
隠れる場所がない。
黒い霧で姿を隠しても。
風が教えてくれる。
アイラは静かに弓を引く。
見えている。
敵だけではない。
戦場全体が。
風の流れが。
すべて。
だが、その“見えている”という感覚の奥で、胸の奥に一瞬だけ影が差す。
――届かなかった。
あの時。
盟主の前で。
矢は確かに放たれた。
けれど、届かなかった。
あれは敗北ではなかった。
“届く世界に立てていなかった”だけだ。
悔しさは、今も消えていない。
だがそれは、もう足を止める鎖ではない。
むしろ。
ここまで歩いてきた証だ。
仲間と共に積み重ねた時間が、
風の“見え方”を変えた。
失敗も。
悔しさも。
全部、ここへ繋がっている。
アイラはゆっくりと息を吐く。
影はもう見ていない。
大樹の向こう。
まだ届かない場所。
そこにいる存在。
盟主。
「……もう、影じゃない」
声は小さい。
だが、確かに戦場に落ちる。
弦が軋む。
風が収束する。
世界が一瞬だけ静止する。
そして。
「――今度は、届く」
放たれる。
一矢。
それは風ではない。
“意志そのもの”だった。
黒い霧を裂き、
短剣の使徒の間合いすら無視して、
一直線に貫く。
空間が震える。
風が遅れて追従する。
「次は、あなた自身を射抜く」
短剣の使徒が踏み込む。
しかし。
もう遅い。
風は。
過去ではなく。
“今のアイラ”に従っていた。




