パスレス
風の迷宮。
その先。
二人の前に広がっていたのは、途切れた空間だった。
道はない。
壁もない。
ただ。
深い闇だけが続いている。
その闇は、ただの暗さではなかった。
視線を落とすと、空間そのものがわずかに“沈んで”見える。
光が吸われるように歪み、距離の感覚が狂う。
ベスは目を細める。
「……ここを渡るのか。」
アイラは頷いた。
「うん。」
短い返事。
迷いはない。
ベスは周囲を見る。
何もない。
足場になるものも。
進むための道も。
だが、よく見ると空間の一部だけが微かに“重なっている”。
風が層のように折り畳まれ、そこだけ密度が違う。
「どうやって。」
アイラは答えなかった。
目を閉じる。
風を感じる。
僅かな揺らぎ。
空気の流れ。
この場所に残された風の記憶。
そして。
アイラは一歩踏み出した。
何もない場所へ。
「!」
ベスが息を止める。
その瞬間、アイラの足元に“薄い板のような気配”が生まれる。
見えないが、確かにそこに“支え”がある。
だが次の瞬間、その足場はふっと消えた。
まるで風が息を吐くように、存在そのものがほどけていく。
アイラは落ちない。
消える直前に、次の風の層へと重心を移している。
一歩。
また一歩。
足を置くたびに、空間が“生成されては崩れる”。
踏みしめるというより、風の上を“滑り渡っている”感覚に近い。
ベスはその背中を見る。
そして。
自分も同じ場所へ足を踏み出そうとした。
しかし。
「……っ」
足を置いた瞬間、そこには何も生まれない。
さっきまでアイラが踏んでいた“層”は、もう存在していなかった。
空間がわずかに歪み、まるで拒絶するように形を変える。
風が“記憶を消している”。
「時間で変わるのか。」
アイラが答える。
「うん。」
「同じ道は二度とない。」
その言葉の通りだった。
この場所では、足場は固定されない。
誰かが踏んだ瞬間にだけ生まれ、次の瞬間には別の形へと崩れ落ちる。
ベスは黙る。
自分の力なら。
フェンリルなら。
無理やり突破できるかもしれない。
だが。
ここは違う。
力を振るう場所ではない。
見えないものを信じる場所。
ベスは拳を握る。
そして。
ゆっくり力を抜いた。
「……アイラ。」
アイラは止まらない。
風を見続ける。
「先に行け。」
その言葉に。
アイラの足がわずかに止まる。
「でも。」
ベスは静かに言う。
「俺には見えない。」
その言葉に。
アイラは何も返さない。
「だから。」
「任せる。」
静かな言葉だった。
悔しさも。
焦りもない。
ただ。
信頼だった。
アイラは前を見る。
見えるのは。
刻一刻と形を変える風の層だけ。
足場は常に生まれ、常に消える。
一瞬でも読み違えれば、そのまま空間に飲まれる。
目を離すことはできない。
振り返ることもできない。
それでも。
アイラは口を開く。
「……ベス。」
背中を向けたまま。
声だけを届ける。
「待ってて。」
ベスはその言葉を聞く。
「私が。」
「この先の道を開くから。」
風が揺れる。
足場が一瞬だけ“安定した層”へと変わる。
アイラはその瞬間を逃さず、一歩を置く。
すぐにその層は崩れ、別の風へと溶けていく。
「必ず。」
「あなたが進める場所まで繋げる。」
ベスは静かに目を細める。
今は追えない。
手を伸ばすこともできない。
だから。
信じる。
「……ああ。」
「任せる。」
その言葉を背に。
アイラは進む。
見えない道へ。
一歩。
また一歩。
風の層を読み、崩れ、また生まれるその隙間を渡りながら。
ベスは静かに待つ。
彼女なら。
きっと。
自分の知らない道を開いてくれる。
そう信じて。




