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バル  作者: 隣の猫
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ウィンメル



水底の遺跡。


開かれた扉の先。


そこには、静かな空間が広がっていた。


水は確かにそこにある。


だが――音が違う。


水の中特有の「圧し潰されるような静けさ」がない。


代わりに、耳の奥だけが妙に澄んでいる。


ぽたり、と水が落ちる音がした。


しかしそれは遠くではなく、すぐ隣で鳴ったように響く。


空間の距離感が狂っている。


「……。」


ベスは一歩踏み出す。


足音はある。


だが、水を踏んでいる感触がない。


靴底が何か柔らかい膜を踏んでいるような、曖昧な抵抗。


視界の端で、水が揺れているのに、中心では揺れていない。


見えているものと、感じているものが一致しない。


「変な場所だな。」


声を出した瞬間、自分の声が遅れて返ってきた。


一拍遅れではない。


“空間を一周して戻ってきた”ような歪み方だった。


アイラが小さく頷く。


「うん。」


その声は逆に、やけに近い。


耳元で囁かれたような距離感。


だがアイラは数歩先にいる。


距離が壊れている。


「風が……迷ってる。」


アイラの言葉に、ベスは眉をひそめる。


風。


だがここは水の中だ。


普通なら風など存在しない。


それでも。


確かに“流れ”がある。


肌に触れるものではない。


圧だ。


空間そのものが、わずかに押してくる。


前へ進もうとすると、背中から押し返されるような違和感。


呼吸はできる。


だが吸い込む空気が、どこか重い。


肺の奥に沈むような感覚。


「……。」


アイラは目を閉じた。


その瞬間。


世界の音が一段階落ちる。


水の揺れが消える。


ベスの呼吸が遠のく。


自分の心音だけが、やけに大きく響く。


そして――


風が現れる。


正確には、風ではない。


“流れ”だ。


空間の中に、細い線のような圧の差が走っている。


右へ流れるもの。


途中で折れるもの。


途中で消えるもの。


まるで迷路そのものが呼吸しているようだった。


「……右。」


アイラの声は、静かだった。


ベスはそのまま歩く。


一歩。


二歩。


その瞬間。


背後の空気が“閉じた”。


音が途切れる。


振り返ると、さっきまであった通路が、何事もなかったように壁へと変わっている。


石が動いたわけではない。


空間が“なかったことにされた”ような感覚。


「……戻れないのか。」


ベスの声は低い。


アイラは短く答える。


「間違えたら、ね。」


その言葉に、空間の圧がわずかに強くなる。


まるで遺跡そのものが聞いているようだった。


二人は進む。


足音はする。


だが、どこかで吸い込まれていく。


音が途中で消える。


残響が残らない。


やがて広間に出る。


そこはさらに異質だった。


中央に一本の石柱。


その周囲に、無数の床石。


だがそれらは“浮いている”ように見える。


影がない。


光が届いているのに、影が落ちない。


空間が平坦ではない。


層になっている。


視界の奥が、わずかにずれている。


「これか。」


ベスが一歩踏み出す。


その瞬間。


空気が“沈んだ”。


音ではない。


圧だ。


足元の空間が、急に重くなる。


カチッ。


乾いた音。


だがそれは耳ではなく、骨に響いた。


次の瞬間。


床が“落ちた”。


落下ではない。


消失に近い。


ベスの身体が空間ごと引きずり込まれる。


「!」


反射的に腕を構える。


だが支えがない。


上下の感覚が崩れる。


視界が一瞬だけ白く弾ける。


「フェンリル――」


呼ぶ。


しかし。


何も起きない。


声が空間に吸われる。


届かない。


力が“拒絶”されているのではない。


そもそも“届く先がない”。


「……っ。」


ベスの目がわずかに見開かれる。


落ちているのに、落ちていない。


沈んでいるのに、進んでいる。


空間そのものが、彼を別の層へずらそうとしている。


その瞬間。


「ベス!」


アイラの声。


今度ははっきりと“近い”。


だが距離は変わっていない。


矢が放たれる。


一本。


だがその軌道は直線ではない。


空間の歪みをなぞるように、途中でわずかに曲がる。


風の流れではない。


“圧の隙間”を縫っている。


壁。


天井。


床。


それぞれの層を一瞬ずつ通過しながら、矢は一点へ向かう。


カチッ。


乾いた音。


空間のどこかで“鍵”が外れる。


落ちていた床が止まる。


ベスの身体が、寸前で引き戻される。


「……。」


呼吸が戻る。


音が戻る。


距離が戻る。


世界が一気に現実へ引き戻される。


ベスはゆっくりと顔を上げる。


アイラがそこにいる。


弓を下ろさず、まだ構えたまま。


「大丈夫?」


その声は、今度は普通の距離だった。


ベスは一拍置く。


「ああ。」


「助かった。」


アイラは少しだけ目を丸くする。


そして、ほんのわずかに口元を緩めた。


「珍しい。」


「何が。」


「ちゃんと“助かった”って言うの。」


ベスは視線を逸らす。


「……言うべき時は言う。」


アイラは小さく頷く。


「そっか。」


風――いや、流れがまだ続いている。


この先はさらに複雑だ。


空間が“生きている”ような感覚。


「次は。」


アイラが呟く。


「もっと難しい。」


ベスは立ち上がる。


足元の感覚を確かめる。


今度は、確かに“地面”がある。


だが油断すれば、また消える。


「なら。」


短く言う。


「任せる。」


その言葉に、アイラの瞳がわずかに揺れる。


以前のベスなら、絶対に言わなかった言葉。


自分で踏み込み、自分で壊し、自分で進む男だった。


だが今は違う。


二人は並ぶ。


一歩ずつ。


空間の歪みの中へ。


風ではない。


圧でもない。


それでも確かに“道”はある。


その先に。






















まだ誰も正しく踏み込んだことのない試練が待っていた。

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