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バル  作者: 隣の猫
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298/410

アルティリス



アイラは動けなかった。


胸の奥が、ひどく冷たい。


息を吸っているのに、肺の底まで空気が届かないようだった。




レオンが吹き飛ばされた。




大剣。


小剣。


二つの剣を重ねて。


それでも。


届かなかった。




「……。」


アイラは弓を握る。


指先に力を込めると、弦を張る前から手のひらが痛んだ。


汗で滑りそうになるのを、必死に押さえ込む。




見えていた。


レオンが何をしたのか。


どう受けたのか。


全部。


目で追えていた。


理解もしていた。


なのに、身体のどこにも「間に合う」という感覚がない。




それでも。


あの一撃は、


止められなかった。




目の前にいる存在。


虚無の盟主。


見ているだけで、背筋の奥がざわつく。


空気が重い。


視線を向けられているだけで、喉の奥が乾いていく。




アイラは理解する。


自分がやるべきことを。




避ける。


違う。




読む。




相手の動き。


空気の流れ。


影の揺らぎ。




全てを見る。


見落とさない。


一瞬でも遅れれば終わる。


そう分かっているのに、心臓だけが嫌な速さで打っていた。




その瞬間。




盟主の視線が、


アイラへ向いた。



来る。


背中を冷たいものが這う。




ヒュッ。




黒い筋が床を走る。


アイラは弓を引いた。


弦が指に食い込み、鈍い痛みが走る。


まだ早い。


まだだ。


もっと引ける。


もっと見える。




一瞬。




「今。」




弦を離す。




ヒュンッ!!




矢が飛ぶ。


狙いは影そのもの。


黒い筋が伸びる方向。


その軌道を、


僅かに逸らす。




ギィン!!




黒い刃が、


本来とは違う場所へ突き刺さる。




アイラは息を吐く。


肺の奥に溜まっていたものが、ようやく少しだけ外へ出た。


読めた。


間に合った。


そう思った瞬間、胸の奥に小さな安堵が灯る。




一撃目は避けたんじゃない。




変えた。




「……。」




だが。


その安堵は、次の瞬間にはもう砕けていた。




盟主は止まらない。




次の黒い筋が動く。




二撃目。




アイラは身体を捻る。


肩から腰へ、無理やり力を流す。


だが、足が床を掴みきれない。


遅い。


間に合わない。


分かっているのに、身体が思うように動かない。




黒い刃が肩を掠める。




熱い痛み。


皮膚が裂ける感覚が遅れて来る。


そのあとに、じわりと血が滲む温かさ。


痛みより先に、失敗したという感覚が胸を刺した。




それでも。


弓は離さない。


指が震える。


腕が痺れる。


それでも、手放したら終わる気がした。


この弓だけは、まだ自分を繋いでいる。




三撃目。




来る。




分かる。


逃げられない。


避けられない。


身体が先に諦めそうになるのを、必死に噛み殺す。




アイラは迷わなかった。




弓を横へ構える。




自分の武器を盾にする。




ガギィィン!!




衝撃。




腕が痺れる。


骨の奥まで響くような重さが、両腕を一気に貫いた。


指先の感覚が消えかける。


弓を握っているのか、握らされているのかも分からなくなる。




弓が悲鳴を上げる。




バキィィン!!




弓が砕けた。




その音が、やけに大きく耳に残った。


自分の中の何かまで一緒に折れたような、嫌な音だった。




身体が浮く。




次の瞬間。




床を滑る。


背中から衝撃が走り、息が詰まる。


石床の冷たさが服越しに伝わってきて、痛みが遅れて全身へ広がった。




壁へ叩き付けられる。




「……っ。」




アイラは目を開ける。


視界が揺れて、天井の輪郭がぼやける。


生きている。


意識もある。


でも。




身体が動かない。


腕が重い。


指が言うことを聞かない。


肩が焼けるように痛い。


息を吸うたび、胸の奥がひりつく。




弓は。




もうない。




視線を落とす。


そこにあるはずのものがない。


手の中が、ひどく軽い。


軽すぎて、逆に怖かった。




自分の戦う術が、


一瞬で奪われた。




「……。」




悔しい。


喉の奥が詰まる。


叫びたいのに、声にならない。


見えていた。


読めていた。


分かっていた。


なのに、何一つ守れなかった。




それでも。




届かなかった。




その事実だけが、重く、冷たく、胸の真ん中に沈んでいく。


悔しさが、無力感が、混乱が、ぐちゃぐちゃに絡まって、どこから整理すればいいのかも分からない。


どうして。


どうして止められなかった。


どうして弓が折れた。


どうして自分はここで倒れている。


頭の中だけが、答えのない問いでいっぱいになる。




その時。




足音が響く。




カツン。




アイラは顔を上げる。




黒い影。




終わる。




そう思った。


身体が勝手に強張る。


もう何もできないのに、反射だけが残っている。




だが。




伸びてきた手は、


刃ではなかった。




腕を掴まれる。




ゆっくりと、


身体を起こされる。




「……え?」




理解できない。


頭が追いつかない。


敵が。


なぜ。


自分を。


立たせる。




混乱だけが、痛みより先に押し寄せる。


助けられたのか。


違う。


そんなはずはない。


見逃されたのか。


それも違う気がする。


何が起きているのか、まるで分からない。




答えはない。




虚無の使徒は、


静かに手を離した。




そして。




何事も言わず、


元いた場所へ戻っていく。




アイラはただ、


その背中を見つめていた。


























折れた弓の感触だけが、まだ手の中に残っている気がした。

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