ルフェリス
封印の間。
ベスは継承者の剣を握ったまま、目の前の虚無の盟主を見つめていた。
盟主が一歩踏み出す。
その足音は、広い封印の間に低く乾いた響きを落とした。
その瞬間。
床へ滲んでいた黒い影が、まるで水面を走る波のように一斉に跳ねた。
ベスの足元。
左右。
背後。
逃げ道を塞ぐように、影が細く伸び、床を這い、壁を舐めるように迫る。
フェンリルの前脚が即座に反応する。
銀色の爪が振り抜かれ、黒い影を叩き割るように弾いた。
だが影は散らない。
床に叩きつけられた黒が、次の瞬間には槍の穂先のように尖り、刃のように薄く伸び、鎖のように絡みつきながら、ベスの周囲を締め上げていく。
ベスは防ぐ。
受ける。
弾く。
金属がぶつかる甲高い音と、影を裂く鈍い衝撃が、何度も何度も封印の間に跳ね返った。
一歩退くたび、影はその半歩先へ滑り込み、足場を削るように距離を詰める。
石床を削る音。
爪が空を切る風鳴り。
黒い影が床を叩く湿ったような音。
それでもベスは、少しずつ、少しずつ、仲間のいる位置から押し離されていく。
「ベス!」
レオンの声が響く。
だが、二人の間へ黒い影が割り込み、床から立ち上がった壁のように視界を塞いだ。
近付けない。
その時、レオンは気付いた。
盟主は、動いていない。
右手。
影を操っているはずの腕。
一度も振られていない。
「……。」
レオンが目を細める。
「右手……動いてねぇ。」
だが、次の瞬間。
レオンの視界から、盟主の姿が消えた。
速い。
そう思った時には、もう遅かった。
目の前。
黒い影が立っていた。
ここから先、レオンには時間が引き伸ばされたように感じた。
一撃目。
死ぬ。
本能がそう告げた。
身体が先に動いた。
考えていない。
だが、覚えていた。
大剣。
ガギィィィン!!
刃と刃がぶつかり、耳の奥まで響く金属音が弾ける。
両腕に重さがのしかかり、肩から肘へ、肘から手首へと衝撃が走る。
足元の石床が、靴底ごと数寸沈んだ。
それでも、止めた。
二撃目。
来る。
左。
短い刃。
大剣では間に合わない。
腰。
小剣。
抜く。
逆手。
キィィン!!
細い刃が黒い軌道をかすめ、火花のような音を散らして逸らす。
頬のすぐ横を冷たい風が抜け、髪が揺れた。
三撃目。
避けられない。
レオンは二本の剣を重ねた。
大剣。
小剣。
残った力を、腕の震えごと押し込む。
「ぐっ……!!」
ガギィィィン!!
今度の衝撃は、受け止めたというより、押し潰されたに近かった。
腕が悲鳴を上げ、視界の端が白く弾ける。
だが。
次の瞬間。
身体が浮いた。
衝撃。
骨の芯まで響く鈍い痛み。
視界がぐるりと回転し、天井と床が何度も入れ替わる。
石床を何度も転がり、背中と肩を打ちつけ、最後に壁へ叩き付けられた。
ドン、と鈍い音が封印の間に落ちる。
「……。」
レオンはゆっくり目を開ける。
生きている。
意識もある。
だが。
身体が動かない。
腕へ力を込める。
指先がわずかに震えるだけで、立ち上がるだけの力が戻らない。
「……。」
悔しい。
ここまで来た。
強くなった。
仲間と繋ぐ戦い方を覚えた。
それでも。
届かなかった。
その時。
カツン。
足音。
誰かが近付いてくる。
カツン。
また一歩。
レオンは息を止める。
(来るのかよ……。)
(くそ……。)
(何も……できなかった……。)
黒い影が視界へ入る。
終わる。
そう思った。
だが。
伸びてきた手が掴んだのは、首ではなかった。
腕。
「……え?」
身体が引き起こされる。
無理やりではない。
だが、逆らえない重さで、上体だけが持ち上がる。
レオンは理解できなかった。
なぜ。
なぜ敵が。
自分を起こしている。
「……何が起きた?」
答えは返ってこない。
虚無の使徒は、ただ静かに手を離し、何事もなかったように元の位置へ戻っていく。
レオンはその背中を見つめることしかできなかった。




