カルディアス
地下神殿の奥。
ベスはノアを背負いながら歩いていた。
崩れた石壁。
割れた床。
長い年月眠っていた神殿の奥へ、
二人の足音だけが静かに響く。
「ノア。」
背中から小さな返事が返る。
「ん?」
ベスは少しだけ言葉を選んでから口を開いた。
「さっきのこと。」
「覚えてるか?」
ノアは首を傾げる。
「さっき?」
「えっと……。」
小さく考え込んでから、
困ったように笑った。
「んー……。」
「覚えてない。」
ベスは思わず息を漏らし、苦笑する。
「やっぱりか。」
「ごめん。」
「いや。」
「ノアらしい。」
ノアは少しだけ頬を膨らませた。
「でも。」
「私、何かしたんだよね?」
ベスは静かに頷く。
「ああ。」
「助けてもらった。」
「フェンリルも。」
「お前のことを導きの巫女って呼んだ。」
「導きの……巫女。」
ノアはその言葉を繰り返す。
けれど、やはり思い出せない。
それでも。
胸の奥には、言葉にできない温かさだけが残っていた。
「不思議。」
ノアが小さく呟く。
「何が?」
「分からないのに。」
「怖くない。」
ベスは少しだけ目を細めた。
「それなら十分だ。」
その時だった。
遠くから。
ドォォン!!
大きな衝撃音が響いた。
二人の足が止まる。
続けて。
キィィィン!!
剣がぶつかる鋭い音。
「戦ってる……。」
ノアが呟く。
ベスの表情が変わる。
聞き覚えのある音。
剣。
矢。
そして。
仲間の気配。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「行くぞ。」
ベスは走り出す。
だが。
すぐに止まった。
左腕を見る。
フェンリル。
力を使った反動はまだ残っている。
今、解放すれば。
身体が持たない。
「……。」
それでも。
行くしかない。
仲間が戦っている。
その事実だけで、足を止める理由にはならなかった。
二人は音のする方へ進む。
やがて。
広い空間へ出た。
そこにいたのは。
灰色の霧を纏う一人の剣士。
そして。
その前で戦う三人。
「……!」
ベスの目が見開かれる。
レオン。
アイラ。
リシア。
胸の奥で、何かが一気にほどけた。
生きていた。
その事実だけで、喉の奥が熱くなる。
「みんな……。」
思わず漏れた声は、震えていた。
生きていた。
無事だった。
それだけで、どれほど救われたか分からない。
その瞬間。
レオンの大剣が振り抜かれる。
アイラの矢が飛ぶ。
リシアの剣が繋ぐ。
三人の動きは、以前よりずっと鋭く、ずっと強い。
けれど同時に、どこか必死だった。
届かないと知りながら、それでも前へ出るしかない――そんな切迫した気配が、遠くからでも伝わってくる。
ベスは踏み出した。
助ける。
そう思った。
だが。
「待て。」
小さな声。
灰猫だった。
「今行けば。」
「おぬしも戦いへ飲まれる。」
ベスは振り返る。
「でも。」
「仲間が。」
声が掠れる。
助けたい。
今すぐにでも飛び込みたい。
けれど、目の前の戦いは、ただの乱戦ではないと本能が告げていた。
その時。
リシアも気付いた。
灰色の剣士。
その戦い方。
追撃しない理由。
ただ防ぐだけではない。
殺すための剣ではない。
どこかで、必死に踏みとどまっているような――そんな不自然な優しさがあった。
「……。」
リシアの目が細くなる。
驚きと、戸惑いと、胸の奥に差し込むような予感。
「もしかして。」
猫が小さく息を吐く。
「そうじゃ。」
灰色の霧の向こう。
ガルドは静かに剣を構えていた。
その姿を見た瞬間、ベスの胸が強く跳ねる。
団長。
そう呼びかけそうになって、喉が詰まった。
「団長……。」
ベスの声が漏れる。
驚きと安堵が同時に押し寄せる。
だが、その安堵のすぐ下に、どうしようもない痛みがあった。
なぜ、こんな姿で。
なぜ、仲間に剣を向けるような形で。
なぜ、今まで気付けなかったのか。
その瞬間。
ガルドの灰色の瞳が揺れる。
レオン。
アイラ。
リシア。
その名を、心の中で呼んだだけで胸が締め付けられる。
生きていた。
無事だった。
その事実に、確かに安堵した。
けれど同時に、今まさに自分が彼らへ剣を向けていたという現実が、鋭く突き刺さる。
レオンは大剣を構えたまま、息を呑んだ。
その剣筋。
その間合い。
その立ち方。
見覚えがある。
いや、見覚えがあるどころではない。
身体が、先に反応していた。
「……団長?」
声が出た瞬間、レオン自身が驚く。
敵だと思っていた相手が、ほんの一瞬で別の存在へ変わる。
怒りでもなく、恐怖でもなく、まず最初に込み上げたのは、信じられないという震えだった。
アイラもまた、矢を番えたまま動きを止める。
目の奥がじんと痛む。
血の滲む視界の向こうで、その剣士は確かに“知っている誰か”の気配を持っていた。
追撃しない。
無駄に傷つけない。
その戦い方が、あまりにもガルドらしい。
「……ガルドさん……?」
掠れた声が、思わず漏れる。
驚きと安堵で、胸がいっぱいになる。
同時に、こんな姿になるまで何があったのかという恐怖が、遅れて押し寄せた。
リシアは剣を握る手に力を込めたまま、唇を噛む。
最初に感じた違和感は、確信へ変わっていた。
虚無の使徒なら、今の隙を逃さない。
だが、目の前の剣士は違う。
こちらを傷つけることよりも、何かを必死に抑えているように見える。
「……やっぱり。」
安堵が先に来た。
そのあとで、どうしてこんな形で再会しなければならなかったのかという苦さが、静かに胸へ沈む。
灰色の霧の向こうで、ガルドは三人を見つめた。
レオン。
アイラ。
リシア。
その顔を見た瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
生きていた。
無事だった。
それだけで、どれほど救われたか分からない。
だが同時に、彼らへ向けてしまった剣の重さが、今さらのように腕へのしかかる。
会いたかった。
無事を確かめたかった。
それなのに、最初に交わしたのが言葉ではなく刃だった。
その事実が、痛いほど苦しい。
「ガルド。」
猫が呼ぶ。
「戻れ。」
ガルドは静かに答える。
「問題ない。」
「俺は制御できている。」
その声は落ち着いているようでいて、どこか硬い。
自分に言い聞かせるような響きがあった。
次の瞬間。
猫の尻尾が揺れた。
「それじゃ。」
「余計に危ないと言っておる。」
「制御できると思った瞬間が。」
「一番、呑まれる時じゃ。」
ガルドは黙る。
反論できない。
いや、反論したくないのかもしれない。
レオン。
アイラ。
リシア。
全員が、その姿を見つめていた。
驚き。
安堵。
戸惑い。
そして、言葉にできないほどの葛藤。
それぞれの胸に、同じ痛みが走っていた。
長い旅の先。
ようやく。
喜びだけでは終われない再会を越えて、
灰鷹が再び、一つになる瞬間だった。




