アルニタク
海王種は、ゆっくりと船へ近づいてくる。
その巨体が波を押し分けるたび、海は大きくうねった。
誰も声を出さない。
剣を握る手には汗が滲む。
「……来る。」
船長が唇を噛む。
甲板には重苦しい静寂だけが流れていた。
その時だった。
海王種の巨大な瞳が、まっすぐベスを見つめた。
言葉はない。
敵意も感じない。
ただ。
その視線だけが異様なほど鋭かった。
まるで何かを見定めているようだった。
ベスも目を逸らさなかった。
恐怖はある。
足も震えている。
それでも逃げなかった。
静かに海王種を見返す。
長い時間に感じられた。
実際には数秒だったのかもしれない。
やがて。
海王種はゆっくりと目を閉じる。
巨大な身体を翻し、
船の横を通り過ぎていった。
荒れ狂っていた波が、少しずつ静まっていく。
誰もが息を止めたまま、その姿を見送った。
そして海王種は、
夜の海へ静かに消えていった。
⸻
「……助かった。」
船長がその場へ座り込む。
緊張が解けた船員たちも、一斉に大きく息を吐いた。
「奇跡だ。」
「襲われなかった。」
「こんなことがあるのか……。」
誰もが信じられない表情だった。
ガルドは海を見つめたまま呟く。
「違う。」
「見逃されたんだ。」
その言葉に、ベスはもう一度海を見る。
あの瞳には、確かに敵意がなかった。
何かを確かめるような、不思議な眼差しだった。
⸻
夜明け。
船はようやく穏やかな海域へ入った。
傷ついた船体を修理しながら、乗客たちは昨夜の出来事を語り合っていた。
「あの若い剣士、強かったな。」
船員の一人がベスへ声をかける。
「右手の剣と左腕の獣爪。」
「まるで獣みたいだった。」
ベスは少し困ったように笑う。
「まだまだです。」
「団長には全然及びません。」
その言葉を聞いていたレオンが近づいてきた。
肩へ担いでいる大剣を軽く叩く。
「謙遜じゃないな。」
「本気でそう思っている顔だ。」
ベスは頷く。
「本当に強い人を知ってるから。」
⸻
昼過ぎ。
船首で二人は並んで海を眺める。
「俺は東の大陸から来た。」
レオンが静かに話し始める。
「東では、剣を扱うことが一つの文化になっている。」
「俺もそこで剣を学んだ。」
風が二人の髪を揺らす。
「だから昨日、お前を見て少し驚いた。」
「俺?」
「ああ。」
「お前は仲間を守るために剣を振っていた。」
ベスは少し考える。
頭に浮かぶのは、灰鷹のみんなの顔だった。
ガルド。
ボルグ。
エイン。
リシア。
そして亡き両親。
「昔は違った。」
「俺も、自分のことしか見えてなかった。」
「でも……。」
静かに海を見る。
「一人じゃ強くなれないって教わった。」
レオンは黙って聞いていた。
やがて、小さく笑う。
「面白い。」
「中央島で、お前と戦うのが楽しみになった。」
「勝負?」
「もちろん。」
レオンは真っ直ぐベスを見る。
「ただし。」
「命を奪うためじゃない。」
「互いに高め合うためだ。」
ベスも笑った。
「ああ。」
「望むところだ。」
二人は初めて固く握手を交わした。
⸻
その瞬間だった。
遠くの水平線に、大地が見え始める。
「見えたぞ!」
見張りの船員が大声を上げる。
「中央島だ!」
歓声が船中へ広がる。
巨大な城壁。
天を突く塔。
港へ集まる数え切れない船。
そして。
四つの大陸の旗が、同じ港ではためいていた。
争い続ける四大陸が、
今だけは同じ場所に集っている。
その光景に、ベスは静かに息をのむ。
「ここが……。」
「世界の中心。」
⸻
彼はまだ知らない。
この島で出会う仲間やライバルたちが、
自分の人生を大きく変えていくことを。
そして。
この中央島こそが、
神々と人類の運命が再び交わる舞台であることを。




