エルナト
春の風が砦を吹き抜ける。
冬の冷たさは消え、山には小さな花が咲き始めていた。
神殿での出来事から、一か月。
灰鷹には穏やかな日々が戻っていた。
ベスはいつものように夜明け前から訓練場に立つ。
木剣を振る。
獣のように低く。
だが、その剣筋は以前よりずっと静かで、美しかった。
「終わりだ。」
ガルドの声が響く。
ベスは木剣を下ろす。
「今日で、お前の基礎訓練は終わる。」
その一言に、訓練場が静まり返る。
ボルグが笑いながら肩を叩いた。
「おめでとう。」
「やっと半人前だな。」
団員たちから笑いが起こる。
ベスも照れくさそうに笑った。
その夜。
食堂では珍しく大きな宴が開かれていた。
長い机に並ぶ料理。
酒を酌み交わす団員たち。
「今日は新人の卒業祝いだ!」
ボルグが大声を上げる。
「乾杯!」
「乾杯!」
笑い声が響く。
リシアは少し焦げたパンを持ってきて、困ったように笑う。
「ごめん……少し焼きすぎちゃった。」
「いや。」
ベスは一口かじる。
「これくらいがちょうどいい。」
「……本当?」
「うん。」
その何気ないやり取りに、周りから冷やかしの声が飛ぶ。
「おおー!」
「団長! 春ですねぇ!」
リシアは真っ赤になり、ベスは意味が分からず首をかしげる。
食堂は大きな笑いに包まれた。
その笑顔を見ながら、ガルドは静かに酒を口へ運ぶ。
「……笑えるようになったか。」
誰にも聞こえないほど小さな独り言だった。
翌朝。
砦の広場。
灰鷹の団員全員が集まっていた。
中央にはガルド。
その前に立つベス。
「前へ。」
ベスが一歩進む。
ガルドは腰から一振りの短剣を抜いた。
古びた鞘。
柄には灰色の鷹が彫られている。
「これは、灰鷹の証。」
「正式な団員だけが持つ短剣だ。」
ベスは両手で受け取る。
ずっしりとした重み。
それは武器の重さではない。
仲間として認められた重さだった。
「ベス。」
「今日からお前は、灰鷹の一員だ。」
団員たちが剣を掲げる。
「ようこそ!」
歓声が砦へ響き渡る。
ベスは短剣を見つめ、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます。」
深く頭を下げる。
その姿を見たガルドは、満足そうにうなずいた。
式が終わった直後。
一羽の伝書鳥が舞い降りる。
王国の紋章が付いた筒。
ガルドが中身を読む。
その表情が変わる。
「団長?」
ボルグが尋ねる。
ガルドは静かに紙を皆へ見せた。
そこには一文だけ記されていた。
『中央島にて、大規模な魔物災害発生。全ての高位傭兵団へ緊急招集。』
中央島。
四つの大陸すべてが領有を争う、世界の中心。
誰もが一度は名を聞く場所。
しかし、実際に足を踏み入れた者は少ない。
エインが低く呟く。
「……ついに始まるか。」
ガルドは紙を握り締める。
「ああ。」
「世界が動き出した。」
その日の夕暮れ。
ベスは一人、丘の上に立っていた。
眼下には灰鷹の砦。
遠くには、自分が育った村。
そして、さらにその先には、まだ見ぬ世界が広がっている。
右手には剣。
左腕には獣爪。
腰には灰鷹の短剣。
胸には、家族から受け継いだ想い。
そして、仲間と交わした約束。
「父さん。」
「母さん。」
風が優しく吹く。
「俺、行ってくる。」
「復讐のためだけじゃない。」
「この世界で生きる人たちを守れるくらい、強くなって帰ってくる。」
その言葉は、かつての少年なら決して口にしなかった。
復讐は消えていない。
神への怒りも残っている。
それでも、その心には新しい願いが生まれていた。
守りたい。
仲間を。
未来を。
そして、いつか世界そのものを。
ベスはゆっくりと歩き出す。
その背中を朝日が照らす。
まだ幼さを残した一人の青年。
しかし、その一歩は確かに英雄への道だった。




