ポルックス
神殿から戻った灰鷹は、三日間、誰一人として依頼を受けなかった。
負傷者の治療。
壊れた装備の修理。
そして、神殿で見聞きしたことを整理するためだった。
王国へ提出する報告書には、神殿の存在だけを記した。
セレネのことも。
黒い影のことも。
誰にも話さなかった。
「今はまだ早い。」
ガルドの判断だった。
もし王国が知れば、兵を送り込み、神殿を荒らすかもしれない。
それだけは避けたかった。
夕暮れ。
ベスは砦の裏山へ向かっていた。
手には一輪の白い花。
村で母が好きだった花によく似ている。
丘の上には、小さな墓が二つ。
旅立つ前に作った、両親の墓だ。
ベスは静かに花を供えた。
「父さん。」
「母さん。」
風が草を揺らす。
返事はない。
それでも、ここへ来ると二人が近くにいる気がした。
「俺さ……。」
少し照れくさそうに笑う。
「仲間ができた。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。
仲間。
以前の自分なら、絶対に使わなかった言葉だ。
「みんな強くてさ。」
「俺なんか、まだ全然敵わない。」
「でも……。」
空を見上げる。
雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。
「いつか追いつく。」
「父さんみたいに。」
「誰かを守れる人になる。」
その誓いは、静かに墓前へ置かれた。
砦へ戻る途中。
道端で小さな泣き声が聞こえた。
茂みをかき分けると、一匹の子狼が罠に足を挟まれていた。
まだ子どもだ。
必死に牙をむくが、震えている。
ベスはゆっくりしゃがみ込む。
「暴れるな。」
低い声で話しかける。
子狼は唸り続ける。
それでも、どこか怯えた目をしていた。
ベスは剣を抜く。
罠だけを切り落とす。
自由になった子狼はすぐには逃げなかった。
しばらくベスを見つめる。
そして、小さく鼻を鳴らすと、森の奥へ駆けていった。
その様子を、少し離れた場所からリシアが見ていた。
「助けたんだ。」
ベスは肩をすくめる。
「放っておけなかった。」
リシアは優しく微笑んだ。
「前のあなたなら。」
「きっと違う選択をしてた。」
ベスは何も答えない。
自分でも分からなかった。
なぜ助けたのか。
理由なんてない。
ただ、助けたいと思った。
それだけだった。
翌朝。
灰鷹の訓練場。
ベスはいつものように木剣を構える。
以前と同じ構え。
右手に剣。
左腕の獣爪。
しかし、その動きは少し変わっていた。
飛び込む前に周囲を見る。
呼吸を整える。
無駄な力を抜く。
獣の鋭さはそのままに、静けさが加わっていた。
ガルドは腕を組み、満足そうにうなずく。
「……ようやく剣が、お前の心に追いつき始めたな。」
「え?」
「昔のお前は、怒りが剣を振っていた。」
「今は違う。」
「お前自身が剣を振っている。」
ベスは木剣を見つめる。
その違いは、まだはっきりとは分からない。
けれど、握る感覚が少しだけ変わっていた。
剣が軽い。
まるで、自分の腕の延長になったようだった。
その日の夜。
砦の見張り台で、ガルドとエインが酒を酌み交わしていた。
「変わったな。」
エインが呟く。
ガルドは静かに笑う。
「ああ。」
「あいつは、ようやく復讐だけで生きる少年じゃなくなった。」
「だが、この先はもっと厳しい。」
ガルドの視線は、遠く北の空へ向く。
白霧の渓谷のさらに向こう。
誰も足を踏み入れない禁域。
「あいつが背負う運命は、俺たちでは支えきれん。」
エインは酒を飲み干し、空を見上げた。
星々が静かに輝いている。
その中で、一つだけ青白く光る星があった。
まるで、この世界の未来を見守るように。
そしてその夜――。
誰にも知られることなく。
崩れ落ちたはずの神殿の地下で、黒い影が静かに目を開いた。
「継承者……。」
低い声が闇へ溶ける。
「次は、逃がさぬ。」
世界は静かに、新たな戦いの足音を刻み始めていた。




