ベガ
鐘の音は、村中の人々から笑顔を奪った。
「南門を閉じろ!」
「子どもたちを教会へ!」
「弓兵は見張り台へ急げ!」
怒号が飛び交い、穏やかだった村は一瞬で戦場へと姿を変える。
ベスは震える手で父の服をつかんだ。
「父さん……。」
父はゆっくりとしゃがみ、ベスと目を合わせる。
「よく聞くんだ。」
その声は優しかった。
だが、その瞳には覚悟が宿っていた。
「もし何があっても、お前は生きろ。」
「でも……。」
「生きることは、逃げることじゃない。」
父は壁に掛けられていた一本の剣を手に取る。
何度も研がれた跡のある、古びた剣。
戦場を知る者だけが持つ静かな重みがあった。
母は棚から小さな革袋を取り出し、ベスの首へかける。
中には銀色の首飾りが入っていた。
「これは、おじいちゃんから受け継いだものよ。」
「大切にして。」
「絶対になくしちゃ駄目。」
ベスは小さくうなずいた。
その首飾りが、後に世界の秘密へとつながる鍵になることを、誰も知らなかった。
外から地鳴りのような音が響く。
ズシン。
ズシン。
ズシン。
窓が揺れた。
父は扉を開ける。
その先には、黒い毛に覆われた巨大な狼のような魔物が立っていた。
赤く光る瞳。
口から垂れる黒い唾液。
鋭い牙は一本一本が短剣ほどもある。
村人たちは槍を構え、必死に立ち向かう。
しかし、その爪が一振りされるだけで数人が吹き飛ばされた。
「こんなの……勝てるわけが……!」
絶望が広がる。
そのとき、父が駆け出した。
「おおおおおっ!」
剣が一閃する。
魔物の肩に深い傷が走る。
「やった!」
ベスは思わず叫ぶ。
だが次の瞬間。
巨大な尾が父を横から打ち抜いた。
鈍い音とともに、父の身体は家の壁へ叩きつけられる。
「父さん!!」
父は血を吐きながら、それでも立ち上がった。
膝は震え、剣先も揺れている。
それでも、一歩も退かなかった。
「ベスを……守る……!」
その言葉だけを胸に。
魔物は咆哮を上げる。
耳をつんざくほどの声に、村中の窓ガラスが砕け散った。
父は最後の力を振り絞り、魔物へ飛び込む。
剣が心臓を貫いた。
しかし、同時に魔物の爪も父の胸を深く裂く。
魔物は倒れた。
父もまた、その場に崩れ落ちる。
「父さん!」
ベスは駆け出そうとする。
しかし母が強く抱きしめた。
「行っちゃ駄目!」
涙で声が震えている。
その瞬間だった。
森の奥から、さらに何十もの赤い瞳が姿を現す。
一体ではなかった。
群れだったのだ。
村人たちの希望は、一瞬で砕け散る。
父は薄れる意識の中で、ベスへ微笑んだ。
「……強く……なれ。」
それが、父の最後の言葉だった。
炎が家々を包み始める。
夜空を焦がす赤い火。
悲鳴。
泣き声。
剣のぶつかる音。
ベスの耳には、それらが遠く聞こえた。
世界が壊れていく音だけが、はっきりと胸に刻まれていく。
そして運命の夜は、まだ終わらない。
次に失われるのは、、、。
ベスにとって、もう一人のかけがえのない存在だった。




