アケルナー
暗闇だった。
冷たい雫が、一定の間隔で石床へ落ちている。
……ポタリ。
……ポタリ。
ガルドはゆっくりと目を開けた。
薄暗い石造りの天井。
重い鉄格子。
両手首には黒い鎖が巻かれ、その先は壁へと繋がっていた。
「……牢か。」
静かに呟く。
力を込める。
ガキン。
鎖はびくともしない。
黒い霧が鎖の表面をゆっくりと流れていた。
「虚無の力か。」
ガルドは小さく息を吐いた。
コツ……。
コツ……。
静かな足音が廊下へ響く。
やがて牢の前へ、一人の男が姿を現した。
白い仮面。
黒い外套。
あの虚無の使徒だった。
男は鉄格子の前で立ち止まる。
「目覚めたか。」
ガルドは黙ったまま睨み返す。
男は小さく笑う。
「昔から変わらないな。」
しばらく沈黙が流れる。
やがて男は、ゆっくりと仮面へ手を掛けた。
カチャ。
仮面が外れる。
現れたのは、鋭い眼差しを持つ四十代ほどの男。
右頬には一本の古傷。
ガルドは静かに目を閉じた。
「……クロム。」
男は微かに笑う。
「ああ。」
「久しぶりだ、ガルド。」
その呼び名には敵意よりも、長い歳月の重みがあった。
「生きていたとはな。」
ガルドが低く言う。
クロムは肩をすくめる。
「お互い様だ。」
「お前こそ、あの日に死んだと思っていた。」
「あの日……。」
ガルドは視線を逸らした。
「その話をするために俺を攫ったのか。」
「違う。」
クロムは即座に否定した。
「お前に会わせたい方がおられる。」
その一言で空気が変わる。
ガルドの眉が僅かに動く。
「……誰だ。」
クロムは答えない。
代わりに牢の奥へ目を向けた。
「焦るな。」
「その時になれば分かる。」
ガルドは鎖へ視線を落とす。
「俺を殺さない理由は。」
クロムは静かに笑った。
「殺す?」
「そんなことをすれば、あの方に叱られる。」
「あの方は、お前を生かしたまま連れて来いと命じられた。」
ガルドは目を細める。
「……そうか。」
それ以上は何も聞かなかった。
牢を出ようとしたクロムが、不意に足を止める。
背中を向けたまま、小さく呟いた。
「灰鷹か。」
ガルドは答えない。
「いい仲間に恵まれたようだな。」
その言葉に、ガルドは僅かに口元を緩めた。
「……ああ。」
「自慢の仲間だ。」
その返事を聞いたクロムは、小さく笑う。
「昔のお前なら、そんな言葉は口にしなかった。」
ガルドは静かに目を閉じる。
「人は変わる。」
「そうか。」
クロムは仮面を被り直した。
「だからこそ、お前を連れて来た。」
「お前なら、この世界の真実を受け入れられるかもしれん。」
そう言い残し、静かに去っていく。
足音が遠ざかる。
牢には再び静寂だけが残った。
一人残されたガルドは、ゆっくりと天井を見上げる。
(ベス。)
(来るな。)
胸の奥では、そう願っていた。
あの少年は、ようやく守るために剣を振るえるようになった。
だからこそ、この戦いへ巻き込みたくない。
しかし同時に、どこかで分かってもいた。
「あいつは来る。」
小さく苦笑する。
「……本当に、頑固な弟子だ。」
その呟きとともに、牢の外で重厚な扉がゆっくりと開く音が響いた。
ゴゴゴゴ……。
誰かが近づいて来る。
その足音は、クロムよりも重く、威圧感に満ちていた。
ガルドはゆっくりと顔を上げる。
「来たか。」
暗闇の奥から現れた”その人物”の姿は、まだ影に包まれていた。




