アルファード
雪山を越えた灰鷹は、一隻の大型帆船へ乗り込んだ。
白銀の景色は次第に遠ざかり、穏やかな海がどこまでも広がる。
船首へ立つベスは、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「少し暖かいな。」
リシアが隣へ並び、微笑む。
「雪山とは全然違いますね。」
左腕へ視線を落とす。
フェンリルは再び静かになっていた。
だが、不思議と寂しくはない。
もう、そこにいると分かっていたから。
数日後。
「見えたぞ!」
船員の声が甲板へ響く。
水平線の先。
赤や黄金に染まる山々が姿を現した。
その麓には、大きな街が広がっている。
高くそびえる鐘楼。
白い石造りの建物。
運河に架かる美しい橋。
風に舞う無数の紅葉。
「……綺麗。」
リシアが思わず呟く。
ベスも言葉を失う。
雪しかなかった世界から一変。
まるで絵画の中へ入り込んだような景色だった。
港へ船が着く。
石畳の道には旅人や商人が行き交い、広場では楽団が美しい旋律を奏でている。
焼きたてのパンの香り。
色鮮やかな果物。
大道芸人へ歓声を送る子どもたち。
「活気がありますね。」
アイラが辺りを見回す。
レオンは露店の肉串を見つけるなり駆け寄っていた。
「おっちゃん、それ四本!」
「食べ過ぎです。」
アイラが呆れたようにため息をつく。
そのやり取りに、一同から笑いが漏れた。
ガルドも口元をわずかに緩める。
ベスはその表情を見て、小さく笑った。
街の中央広場。
巨大な時計塔の前で、一人の老人が紅葉を集めていた。
落ち葉が風に舞い、老人の足元へ集まる。
ベスは自然と手伝い始めた。
「ありがとう。」
老人は優しく笑う。
「旅人かい?」
「ああ。」
「この大陸は初めてなんだ。」
老人は空を見上げた。
「それなら、美しい景色だけで帰るには惜しい。」
「この国には、長い歴史がある。」
「そして……。」
その表情が少しだけ曇る。
「最近は森で魔物が暴れ始めてね。」
「紅葉狩りへ行く者も減ってしまった。」
ガルドは静かに反応した。
「魔物か。」
老人は頷く。
「灰色の狼。」
「そして、大きな鹿。」
「昔は人を襲うような子たちじゃなかったんだが……。」
その言葉に、ガルドの目が鋭くなる。
宿へ向かう途中。
一枚の紅葉がベスの肩へ落ちた。
それを手に取る。
「綺麗ですね。」
リシアが嬉しそうに笑う。
ベスも紅葉を見つめる。
「……ああ。」
「こんな景色があったんだな。」
復讐だけを胸に生きていた頃なら、気にも留めなかった景色。
今は、その一枚さえ美しく感じられた。
リシアはそんなベスを見て、優しく微笑む。
その頃。
街外れの紅葉の森。
灰色の狼たちが何かに怯えるように後ずさる。
その奥で、一頭の巨大な魔鹿が苦しげな声を上げていた。
紅葉のように美しかった角は、黒い霧に蝕まれていく。
木々の影から、一人の黒衣の男が静かに見つめていた。
「始まったか。」
男の足元から、黒い霧が落ち葉を飲み込むように広がっていく。
赤く染まった森へ、静かな異変が忍び寄っていた。




