ミラク
数日後。
灰鷹を乗せた帆船は、ゆっくりと氷霧大陸の港へ入っていった。
冷たい風が頬を打つ。
吐く息は白く染まり、船員たちは厚手の外套を羽織り始める。
「寒っ!」
レオンが肩を震わせる。
「蒼嵐とはまるで別世界だな。」
アイラも白い息を吐きながら頷く。
「一年中、雪に覆われている大陸だもの。」
ベスは静かに港を見渡した。
石造りの建物。
雪を落としやすい急勾配の屋根。
毛皮をまとった人々が足早に行き交っている。
蒼嵐大陸とは、文化も景色もまるで違っていた。
船を降りると、一人の老人が灰鷹へ歩み寄ってきた。
深く皺の刻まれた顔。
長い白髭。
厚手の毛皮をまとった、小柄な老人だった。
「旅の者か。」
ガルドが静かに頷く。
「ああ。」
老人はどこか不安そうに周囲を見回す。
「なら、気を付けなされ。」
「最近、この辺りの様子がおかしい。」
レオンが眉をひそめる。
「魔物か?」
「ああ。」
老人は重く頷いた。
「昔は山奥にしか現れなかった魔物が、今では街道近くまで姿を見せるようになった。」
「狩人も何人か帰って来なくなってしまってな……。」
アイラは誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「封印の影響……。」
その時だった。
ゴォォォ……
冷たい風が港を吹き抜ける。
人々が一斉に空を見上げた。
北の山脈の向こう。
黒い霧がゆっくりと空を覆い始めていた。
「まただ……。」
老人の顔から血の気が引く。
「あの黒い霧が現れるようになってから、何もかもがおかしくなった。」
「まるで山そのものが怒っているようだ。」
ベスは静かに拳を握る。
忘却の渓谷で聞いた魔狼の言葉が脳裏によみがえる。
『北の封印は半ばまで解かれている。』
その言葉が、今目の前で現実となっていた。
老人は北東の山々を見つめた。
「あの山の奥には、昔から近づいてはならない場所がある。」
「《星詠みの神殿》。」
「何があるのかは誰も知らん。」
「だが、足を踏み入れた者は誰一人帰って来なかった。」
ガルドは静かに山脈を見据えた。
「伝承は生きていたか……。」
老人は首をかしげる。
「知っておるのか?」
ガルドは短く頷く。
「ああ。」
「俺たちは、その神殿を目指して来た。」
老人は目を見開く。
「正気か……!」
「あそこは呪われた場所だぞ!」
レオンは豪快に笑う。
「危ねぇ場所だから来たんだよ。」
「俺たちの仕事は、そういう場所へ行くことだからな。」
老人は言葉を失ったまま、灰鷹の面々を見つめていた。
その夜。
宿の窓から、ベスは白銀の世界を見つめていた。
静かに降り積もる雪。
その美しさとは裏腹に、この大地は確実に異変へ蝕まれている。
左腕の獣爪が、かすかに熱を帯びる。
まるで北の山奥から何かを感じ取っているかのようだった。
ベスはそっと左腕を握る。
「もうすぐ行く。」
その小さな呟きは、まだ見ぬ神殿へ向けた誓いだった。
翌朝。
白銀の朝日が雪原を照らす。
灰鷹は防寒具を整え、港町を後にした。
目指す先はただ一つ。
氷霧大陸の最奥――《星詠みの神殿》。
その地下では今も、半ばまで解かれた封印を巡る戦いが静かに続いていた。
誰にも知られることなく。
世界の命運を懸けた戦いは、確かに始まっていた。




