アデス
朝日が忘却の渓谷を優しく照らしていた。
試練を終えた灰鷹は、旅支度を整え、静かに渓谷の出口へ向かう。
見送りに来たのは、巨大な魔狼と、その一族だった。
ベスは立ち止まり、魔狼へ深く頭を下げる。
「世話になった。」
魔狼は黄金の瞳を細める。
「礼は不要だ。」
「我らは使命を果たしただけ。」
ベスは小さく笑う。
「それでも。」
「ありがとう。」
魔狼は静かに頷いた。
「継承者よ。」
「北の守護一族へ伝えよ。」
「この地の封印は、なお健在であると。」
「そして必ず生きて帰れ。」
「帰る場所がある者は強い。」
ベスは顔を上げ、ふと渓谷を見渡した。
「……一つだけ聞かせてくれ。」
魔狼は静かに頷く。
「何だ。」
「黒い霧は世界中へ広がっていた。」
「なのに、この渓谷だけは静かだった。」
魔狼は足元の大地へ視線を落とす。
「この渓谷は、神代より封印を守るために築かれた聖域。」
「神々は封印だけでなく、この地そのものへ結界を施した。」
「その結界が、永き時にわたり虚無の侵入を拒み続けてきた。」
リシアは小さく息を呑む。
「だから……。」
「黒い霧が入れなかったんですね。」
魔狼は静かに頷いた。
「だが、その結界も永遠ではない。」
「北の封印が半ばまで解かれた今、四つの封印の均衡は崩れ始めている。」
「この結界も、やがて失われる。」
ガルドが低く呟く。
「だから継承者を探した。」
「そういうことか。」
「そうだ。」
「残された時間は、多くない。」
灰鷹は魔狼へ一礼し、忘却の渓谷を後にした。
数日後。
灰鷹は蒼嵐大陸最北端の港町へ到着する。
港は活気に満ち、多くの商船や漁船が停泊していた。
潮風が吹き抜け、白い海鳥が大空を舞う。
ベスは静かに港を見渡した。
旅の途中、海を渡ることは何度もあった。
だが、大陸そのものを渡る旅は、これが初めてだった。
世界は四つの大陸から成る。
彼らが旅をしてきた蒼嵐大陸。
これから向かう第二の大陸――氷霧大陸。
さらに西には紅蓮大陸。
東には天央大陸。
世界は、まだ三つもの未知を残している。
レオンは口元を緩める。
「ようやく二つ目か。」
アイラも小さく笑う。
「世界は思っていたより広いわね。」
ベスは水平線の彼方を見つめる。
その瞳には、不安よりも期待が宿っていた。
ガルドは一隻の大型帆船を見つめる。
「あれだ。」
「氷霧大陸行きの商船。」
灰鷹は船へ乗り込む。
船員たちの掛け声が響き渡る。
「錨を上げろ!」
「帆を張れ!」
大きく帆が風を受け、船体がゆっくりと動き始める。
港が少しずつ遠ざかっていく。
ベスは船尾へ立ち、蒼嵐大陸を振り返った。
この大陸で多くを失い、多くを得た。
灰鷹と出会い。
仲間を知り。
守る強さを学んだ。
左腕にはフェンリルの獣爪。
腰には白銀の剣。
そのどちらも、自分が歩んできた証だった。
ベスは静かに呟く。
「行こう。」
ガルドが隣に立つ。
「ああ。」
「北の守護一族が、まだ封印を守り続けている。」
「今度は俺たちが、その戦いに加わる。」
灰鷹の仲間たちは力強く頷いた。
船は北へ進む。
やがて水平線の彼方に、白銀の大地がゆっくりと姿を現す。
雪に覆われた山々。
凍てつく海岸。
雲を貫く巨大な氷壁。
第二の大陸――氷霧大陸。
その地下深くでは、半ばまで解かれた封印を守る守護一族が、今なお虚無と戦い続けていた。
ベスは静かに拳を握る。
その戦いを終わらせるために。
世界を守るために。
灰鷹を乗せた船は、新たな運命が待つ第二の大陸へ向け、力強く進み続けた。




