8.夫からの頼み事
マリアーナが集中しきって寝室でベランク語の本を読んでいると、扉が開く音がした。
扉の近くの椅子に腰掛けていたため、アルベルトが入って来るのが見えた。
彼は腰に下げた長剣と、かつてはマリアーナのものだった短剣を護衛に手渡している。
そういえば、あの日からマリアーナは短剣を振る練習をしていないのに気づいた。
これからも命を狙われる可能性はある。本当はあの短剣を返して欲しかった。でも、今の立場のマリアーナがそんな物を持たせてもらえるわけがない。
そう思いながら見つめていると、彼は不思議そうな顔で近づいてきた。彼の視線は、今マリアーナの膝の上で広げられている本に向いている。
『ベランク語か……?』
彼は急にベランク語の正しい発音でそう言った。
「ベランクの言葉がお分かりになるの?」
『……戦場ではな、いろんな国からきた傭兵がいる。それで覚えたのさ。便利だからな』
彼の話すベランク語は少し粗野に聞こえる。でも、とても上手だ。
すっかり忘れていたが、そういえば彼はベランクの王子から送られてきた手紙を読んでいた。
しかし、そう指摘すると、彼は肩をすくめて、本を取り上げながら言った。
「あれは翻訳させただけだ。今日護衛についていたブラントの母親がベランク人だったらしくてな。あいつはベランク語の読み書きができる。俺は話せるだけだ」
「では、あなたは、お知り合いとおしゃべりをしていただけで、そこまで話せるように?」
「話すしかなかったからな。紙やペンなんてものは無かった」
「すごい……」
彼はまた「便利だったんだ」と言いながら、本を持ってベッドの方へ歩いて行く。
マリアーナはせめて本にしおりを挟ませて欲しくて、彼を追った。しおりは、今は手元にないのだと言ったら司書が持たせてくれた物だ。
彼はベッドに腰掛けると、本を横に置く。マリアーナはしおりを挟んで本を閉じた。そして、枕元の棚の上に置くか、書き物机に置くかで迷った。この部屋には本棚がない。
本を抱きしめたまま辺りを見回していると、アルベルトがぽつりと意外なことを言った。
「ベランク語の読み書きを教えてもらえるか?」
「……私でよろしいの? 護衛の方以外にも周りにいくらでも……」
「もちろんベランク語が分かる者は大勢いるが、皆、仕事で手一杯だ。人が足りなくてな」
「図書館でも人員不足だと聞きました。司書は、そういえば人をよこして欲しいと言っていたわ」
「担当者に伝えるが、しばらくは難しいかもしれないな。で? 教えたくないのか?」
マリアーナは慌てて首を横に振った。
「私でよければお教えします。そうだわ。明日、教材にできそうな本を見てきます」
「ああ。そういえばさっき聞いた。本の片付けを手伝いたいとか?」
温室と図書館での会話が護衛によって彼に伝えられていた。マリアーナはだめだと言われるものと思い込んでいたけれど、彼は続けた。
「一日中部屋に閉じこもっているのも健康を害するだろう。相手がいいと言うなら、好きにするといい」
そう言ってもらえるなんて思ってもいなくて、マリアーナの心は弾む。
何もできないで過ぎていく時間は虚しいものだから。この数日で何度もそんな思いにとらわれた。
マリアーナは便箋とペンを取り出して、それに丁寧に一つの言葉を綴った。
「……これを」
彼は首を傾げながらそれを受け取る。
その単語がベランク語で『ありがとう』を意味すると伝えると、彼はにやりと笑った。
「最も使用頻度の高い、お礼の言葉ですから……」
「受け取ろう。発音は? きちんとしたものを知りたい」
マリアーナがその言葉を発すると、彼の長い腕に腰を引き寄せられる。
「明日の朝、『おはよう』と書きたい。それを教えてくれ」
「あ、は、はい……」
マリアーナは先ほどの便箋の端に『おはよう』と書き込んだ。そして、それを発音する。
彼は「文字が同じなのは助かるな。いつだったか見たことがある。文字が全く違う形をした本を……」と言いながら、マリアーナをさらに引き寄せる。ついには彼の膝に座らされてしまった。
彼は優しそうに微笑んでいた。
マリアーナはその顔に一瞬見惚れた。彼の素顔を初めて見た気がした。
昔、護身用の短剣の使い方を教わっていた時にも、この寝室で抱かれている最中にも、そんな顔は見たことがない。そのせいか、鼓動も早くなる。
「マリアーナ?」
「あ、はい。毎日少しずつ学習なさるのがよろしいわね。お忙しいでしょうから。では、こうしてはいかが?」
マリアーナは毎日の手紙のやり取りを提案した。手紙を書くだけならば時間が限定されないから、忙しい彼にとって負担が少ないだろう。
「いいな。そうしよう。勉強なんぞ久しぶりだ。読み書きを学んで以来だ」
驚いたことに、アルベルトはこの国の言葉すら、一定の地位についた時に必死に勉強したのだと言った。
「街の学校には……?」
「俺は親について、ずっと戦場暮らしだった。母親がいなくてな。学校なんてものがあるのすら知らなかったさ。父親も文字は書けなかっただろうな」
彼の話にマリアーナは驚いてしまった。そんな生活をしている人がいるなんて考えたこともなかったのだ。
初めて彼に会った時の印象は、体格や運に恵まれた人だというものだった。周りの大人もアルベルトを運がいい男と呼んでいた。
でも本当の彼は、とんでもない努力家に違いなかった。
マリアーナは、自らの意思で何かをした覚えがなかった。三年前にあの記憶を思い出すまでは。
教師に指示されるまま、決められた勉強やダンスをこなしていただけだった。なんと幼かったのだろう。
それと比べて、彼は子どもの頃からずっと戦場で、おそらく大変な生活を送りながら出世し、ついには国王になった。
マリアーナが彼に対して持っていた感情のうちのいくつかが、弾けて消えた気がした。
それは、自分たち家族の運命を変えた彼への憎しみだったかもしれないし、恐怖心だったかもしれない。
あの記憶の中の彼は、ここにはいない。あの時のマリアーナがもういないように。
マリアーナは勇気を出そうと決めた。彼とは話し合えると初めて思った。もし拒否されたらすぐに引き下がればいい。
「恩着せがましい言い方をしてしまいますけれど、ベランク語をお教えする代わりに褒美をいただきたいわ」
「何が欲しい?」
マリアーナは少し震えてしまう声を、なんとか抑えながら「家族に会いたい」のだと彼に言った。
「無事な姿さえ見られれば、話をしなくてもいいのです。ただ、元気でいて欲しいと伝えたくて……」
すぐに返事がもらえるとは思っていなかった。何日でも待つつもりだった。
でも彼は、少し考えてから、「子どもだけならば、会わせられるかもしれない」と言ってくれた。
それでもかまわなかった。心配なのは父と母よりも、まだ子どもと言っていい年齢の妹と、完全に子どもである弟だ。
でも喜びすぎるのもおかしい気がして、こちらを見ている彼に小さく頷いた。
「それでもいいのか?」
「はい……」
「そうか」
彼は面倒は済んだとばかりに、マリアーナの首元に口づけをする。初夜の日に抱かれる前にもこうされたのを思い出す。
気恥ずかしくなって掛け布の中に隠れると、それごと彼に抱きしめられてしまった。
マリアーナはその腕の中から抜け出せない。
体は疲れているし、なぜか安心感を覚えてしまうからだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
その日もマリアーナは警戒すべき相手の体の温もりを感じながら眠った。
つづく……




