7.変わったものと変わらないもの
マリアーナは、この日も突然の明るさに目を覚ました。
昨日、王宮内を歩いたので、この部屋の位置が分かった。日が昇る方角に窓があるので、こんなにも明るいのだろう。
体は疲れを感じるし、昨夜寝る前に自分を包み込んでいた温もりが消えてしまっていて、不安がよぎる。
でも、そうも言っていられない。今日はなぜか洗面器が食事よりも先に運ばれてきたからだ。
マリアーナの習慣としては、それが正しい順序だけれど、なぜ昨日と順番が違うのだろうか。
侍女たちの顔ぶれは昨日と変わらないというのに。
マリアーナが洗面や食事、着替えを済ませると、侍女一人を残して彼女たちは去っていく。
そして、代わりに護衛が扉のこちら側に入り、形ばかりのお辞儀をした。
今日の護衛は昨日もいたエンシオと、ブラントというやや長い黒髪の、エンシオよりもさらに若く、真面目そうな青年だった。ブラントは名乗ったきり口を閉ざした。
笑顔のエンシオが話し出す。
「陛下が、我らが付き添うならば、王妃様にはお好きな場所で過ごしていただいていいとおっしゃっています。どこか、行きたい場所はおありですか?」
マリアーナは少し驚いた。どうしたら王宮内を歩き回る許可をもらえるのかと思っていたからだ。
マリアーナは、革命の日が来るまでに考えていたことがあって、行きたい場所もあった。
「今日は図書館と、あと温室にも行きたいのだけれど、構わないのかしら」
「はい。移動の道順は指定させていただきますが。問題ございません」
「では、先に温室に行くわ」
「かしこまりました」
マリアーナは前後を挟む護衛の二人と一緒に温室に向かった。
顔見知りの庭師が雇われ続けているのを確かめるためでもあり、その人に疎まれていないかを知るためでもあった。
一人では難しいけれど、成し遂げたいことがあって、その庭師に手伝いを頼みたかった。
マリアーナはあの記憶を思い出した三年前から、ある条件を満たす人物と気楽に話せるような関係性を築いていた。
その条件とは、専門性が高くて、なおかつ身分の低い者だ。
つまりは、革命が起こっても、簡単に王宮を去られては困るし、そのまま残らせたところで害にならない人物ということだ。
そんな人間がいる場所は限られる。庭師や、司書などがそうだ。
マリアーナは、彼らが残っているはずの場所に行こうとしていた。
温室には庭師が何人もいた。しかし、王女であった頃のマリアーナにも媚びたりせず、対等に接してくれた人は一人しかいなかった。
変わり者として知られていたウル爺さんと呼ばれていた老人だ。
温室に入ると、庭師たちがこちらを驚いたように見る。どの顔も見知ったものだった。
ところが、以前は微笑みかけてきた彼らは、マリアーナを見た瞬間に視線をそらす。
彼らはマリアーナが本来の地位を失い、形ばかりの王妃になったと知っているのだろう。気に入られる必要がなければ、親切にする必要もないということだろうか。
それで構わなかった。そうなるだろうと思っていたから。
マリアーナは温室の奥に向かった。
目的の人物は、庭師の中で王宮に最も長く勤めている人らしい。
彼にはお気に入りの作業場所があって、ウル爺さんは、そこで接木をしていた。
「お久しぶりね」
マリアーナはほんの少しだけ勇気を出して彼に声をかけた。拒絶される可能性もあったからだ。
しかし、その老人はマリアーナを見て何度か瞬きすると、口を歪めたいつもの笑顔を浮かべた。
「やあ、王女さん、何やら大変らしいね」
その笑顔も、声の調子も前と変わらなかった。
マリアーナは目頭が熱くなるのを何とか止めようとした。
「ええ。少しだけ」
「ああ。でもな、温室にまた来られるようになったなら、まあ、そう悪くはないだろうさ」
彼の言う通りだ。マリアーナはまだ生きている。できることがある。
「あなたが迷惑でなければ、教えていただきたいの。花壇の作り方を。それから、できたら手伝っていただきたくて」
「いいとも」
老人は穏やかな顔で作業を続けながら、こともなげに言う。
マリアーナは込み上がってくるうれしさに涙してしまわないように、笑顔を作った。
今は、見知った顔が周りにいない日々を過ごしている。
知り合いに出会ったとしても、先ほどの庭師たちのように視線をそらされるだろう。
彼のように、つい先日までと同じ態度で接してくれる人に、革命の日以来、初めて出会った。
「許可はこれから取るから、可能だったら改めてお願いするわね」
「ああ」
「では、もう失礼するわね。お仕事の邪魔をしたわ」
マリアーナがそう言ってきびすを返す直前に、彼は片手を振ってくれた。
彼は以前から、いつもそうしてくれていたのだった。
使用人に「ありがとう」と言う必要はないという教育を受けたマリアーナは、心の中で彼にその言葉を贈った。
◆
次にマリアーナが向かったのは王宮と回廊で繋がった図書館だった。
比較的最近、六十年ほど前にマリアーナの曽祖父である当時の国王が建て替えさせた、大きな吹き抜けのある三階建ての建物だ。
つい数週間前に訪れた時には建物の中に大勢の人の気配を感じたものだった。
資料を取りに来た官吏たちや、出入りが許可されている貴族、そして、この膨大な蔵書を管理するための司書たちの足音と、さざめくような声があった。
でも、今それは、ここにない。
あの記憶を思い出してからの三年間、マリアーナは時間の許す限りこの場所に入り浸っていた。世の中の仕組みについて知りたかったのだ。
マリアーナはその時、マナーや語学は習得していたけれど、この国の置かれた状況も、嫁ぐはずだった隣国のベランク王国の立ち位置も、ほとんど知らなかった。
そんな人間に革命が阻止できるわけがないと気づいて、必死に本のページをめくった。
そうして本を読むうちに、このエイノール王国が、マリアーナが教えられていたよりも、大陸の中でも小さな国だと知った。
ただし、エイノール王国は人口や面積の割に穀物がよく育ち、比較的豊かだ。そして、その豊かさを背景に軍備に力を入れており、これまで他国からの侵略を跳ね返してきた。
そして、現在玉座に座っているアルベルトが、平民出身の兵士、隊長、軍団長と位をあげていった速度や、何度、報奨を受けてきたのかも、軍隊の出征記録などを見て知った。
そして、大陸の中で一、二を争う権勢を誇る隣国のベランク王国は、婚姻による結びつきによって小国を併合し、自領としてきた過去があるのも知った。
マリアーナは自分のベランク王国の王子との婚約もそうした思惑があるのだろうかと考えた。
それとなく父に聞いたところ、「この国にも利益をもたらす結婚だ。大国との姻戚関係は、どの国でも持ちたがるから」と、少しずれた答えが返ってきた。
その他にも、不思議な話がたくさんあった。
エイノールは内陸の国だから直接は行けないけれど、ベランク王国などは海と呼ばれる大きな湖に面していて、それを渡った先にはこの世で一番大きな国があるのだそうだ。その国の宮殿は黄金と宝石で飾られているといるのだと言う。
自分が知りうる全てだったこの王宮も、遠く離れた大国の宮殿に比べたら、とても小さいのかもしれないとマリアーナは空想したものだった。
そんな、この三年間、マリアーナにたくさんの事柄を教えてくれた場所も今では静まり返っている。あの頃は、音は抑えられていたけれど、多くの命が感じられた。それが嘘のようだ。
足音の一つ一つが大きく響く、静かな空間の中を進む。新しい紙や古い紙の匂いだけが、以前と変わらずにマリアーナを迎えてくれた。
「失礼するわ」
声をかけると人影が棚の向こうから現れた。
マリアーナの顔見知りのルスコという司書だ。
彼は商家の出で、多言語に通じていた。マリアーナがもし生き残れたら会えるかもしれないと思っていたうちの一人だ。
癖のある金色の髪と、片眼鏡が印象的な三十代に見える男性だ。
貴族階級ではないから、解雇されていないといいと願っていた。
「これはこれは。お久しぶりと言いたいところですが、それほど時間は経っていませんね。いや、もう、この何日かというもの、時間の感覚がおかしくて」
彼は以前から、あまり礼儀を気にしない人物だった。その態度に変化がないのにほっとする。
彼は一度、マリアーナの後ろにいる護衛を気にしたようだったけれど、滑舌のいい話し方で、この図書館の窮状を訴える。
図書館も革命の際に被害が出たのだと言う。
マリアーナは手招きをするルスコについて、彼が先ほどまでいた棚の後ろに足を向けた。もちろん護衛の二人も一緒にやって来る。
そして、そこでテーブルや椅子の上に積まれた本たちを見て絶句した。
そこには明らかに補修が必要な本が並べられていた。
そして、その脇にはさらに大量の本が積まれている。
ルスコによると、彼以外の司書はほとんど皆、貴族だった。それも縁故で雇われていた者が多かった。
その彼らが、兵士たちに連行されそうになった時に抵抗し、本を手当たり次第に投げたせいで、一部の本が破損したらしい。
「ひどい……」
「まったくね。まあ、あいつらは他の場所で役に立たなかっただとか、楽をしたいからとここに配属された者たちでしたからね。館長と私くらいでしたよ。まともに仕事をしていたのは。で、その館長は一応貴族の出だが末端も末端なので、捕らえられなかったのですが、この本たちの有り様に衝撃を受けて寝込んだそうで」
そこで、彼はまたは、破れたり装丁が外れてしまったりした本たちを両手で指した。
「今、私は、たった一人なんですよ。まったく困ったものです」
「こんなにたくさん……。直すのには時間がかかるでしょうね。そちらは無事なのかしら?」
マリアーナが明らかに壊れた物の横に積まれている本たちを指差すと、彼は「それは図書館中から集めてきた、投げられた本ですよ。点検はこれからです」と疲れたように言う。
「他の部署も人が足りてないようですから、早く人を雇って欲しいですね。平民からも試験をして人材を集めるそうですが」
「試験……」
マリアーナはそんな話は聞いたことがなかった。
後ろを振り返ると、エンシオがにこやかに頷く。本当にそうやってこの王宮で働く人々を集めようとしているらしい。
「王女……じゃなかった。王妃様からも陛下に言っておいてください」
「私には……」
マリアーナはルスコから目を逸らして下を向いた。自分はアルベルトに対して意見を言える立場ではない。護衛たちの目も気になった。
それを察したようにルスコが「おっと。すいませんね、気にしないでください」と言う。
以前から彼は他の司書たちのように、まとわりつくように本探しを手伝うとは言ってこなかった。
でも困った時には他の司書はルスコを呼びに行った。するとルスコはあっという間に、目当ての本を探し出してしまう。そんな人だった。次に読むべき本をさりげなく持ってきてくれもした。
あんなに世話になったのに、困っている彼を、また以前のように司書として利用するだけなのは申し訳ない気がした。
今も彼は「修復には技術が……! 館長が早く復帰するといいんですが」と言いながら、自分で髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜている。
マリアーナは自分にできることがあるのなら、彼の手助けをしたかった。
だめだと言われたら諦めるしかないけれど、確認くらいはしてみてもいいのではないだろうか。
マリアーナは迷った末、もし国王の許しがでたら、本の片付けなどを手伝わせて欲しいと申し出た。
「どれほど力になれるかは分からないけれど……」
「そりゃあ、人手はあるだけ助かりますからね。ありがたいお申し出ですが……」
ルスコは護衛たちの方を見た。
マリアーナも振り返って彼らを見る。表情を消している彼らには歓迎されていないのは分かる。そうだろうと思っていた。
マリアーナは、ルスコの無事の確認と、本を借りるつもりでここに来た。これ以上ここにいても、できることはない。
マリアーナはルスコに頼んでいくつかの本を書棚から持ってきてもらった。
本当か知らないけれど、一度彼は「全蔵書の位置を暗記している」と言っていた。その言葉通り自分で探すよりも早いし、マリアーナは自分ではそれを取る立場ではないので彼に頼んだのだ。
「今日はもう失礼するわ。お手伝いの件は確認してみるわね」
「ええ。あと、できたらでいいので、まともな人間の配属をお願いしたいとお伝えください」
「ええ。できたら」
マリアーナはルスコに微笑むと、ブラントに本を持ってもらって部屋に戻った。
本は重いのに、さすが軍人と言うべきか、彼は三冊も両手で持って運んでいる。
以前は本を運ぶのを頼むと、司書たちがワゴンを使って部屋まで持って来たものだった。
マリアーナは部屋で一人になると、久しぶりに借りてきたベランク語で書かれた遠い異国の英雄譚を開いた。
二年以上前にベランクの王子との婚約が決まった。
あの記憶があったから、嫁ぐことはないと分かっていたけれど、懸命にベランクについて学んだ。
宮廷のしきたりや、すでに学んでいた言語をより深く知る努力をした。勉強の手を抜くのは不自然だったからだ。
でも、そうして専門書も読めるほどのベランク語を習得したのは無駄ではなかった。
ベランクは大きな国で、ベランク語で書かれた本も多ければ、遠くの国の本がベランク語に翻訳されていたりもする。そのおかげで、より多くの知識を得られた。
しかし、調べても調べても、王朝が変わる時には血が流れる歴史しか本の中にはない。
今は家族が命を奪われない方法を見つけたいというのに。
でも、自分はこうして生きている。諦めるわけにはいかない。
アルベルトが前国王の父を始めとしたマリアーナの家族を生かしておいている理由は何だろうか。
マリアーナに何かあった時の予備の王妃としての妹以外は、もう処刑していてもおかしくはないのだ。
そして、他の大貴族たちが殺されたという話も聞かない。
彼は何を思って、そのように行動しているのだろうか。
そう思いながら、初めて読む英雄譚に没頭していると、いつの間にか夕食の時間になっていた。
いつものように、面倒そうな顔をしている侍女たちが給仕する夕食を食べる。
アルベルトが言ってくれたのか、侍女たちはマリアーナが夕食をとっている間に部屋に灯りをつけて回る。
そのおかげで、夕食と湯浴みの後もその本を読み続けられた。
つづく……




