6.お飾り王妃は死をまぬがれる
目を開けた時、マリアーナの顔は朝日に照らされていた。眩しくて思わず目を閉じる。
侍女がカーテンを開けたのだ。
彼女たちは何も言わずに朝食の用意を始めている。
以前は、目覚めると始めに顔を洗ったものだった。でも今は洗面用の水が運ばれてくる様子はない。
マリアーナはあの記憶の中でも初夜の後、朝を迎えた。王宮に戻ってから唯一の朝だった。
ところが、その時の出来事は涙が止まらなかったことしか覚えていない。あの時は侍女たちの動きを気にする余裕はなかった。
マリアーナは広いベッドの上の、アルベルトが横たわっていた空間を見た。乱れた掛け物が彼がそこから抜け出したのだと教えてくれる。
やがて洗面もしない状態で朝食の用意ができたと告げられる。
新しい侍女たちの仕事の順番が分からないから、マリアーナはとりあえず言われたことに従った。
ガウンを渡されたので、マリアーナはそれを羽織りながら起きあがろうとした。
その時、体のあちこちが悲鳴をあげる。ひどくはされていないはずなのに、やはり痛みはある。
でも優しく抱かれたのを思い出すと、気恥ずかしさが込み上げる。
しかし、今はそれどころではない。侍女たちの目があるのだ。敵か味方か分からない人たちの。
「彼は……?」
「国王陛下でしたら、執務室に向かわれました。後で護衛を寄越すと言付かっております」
「そう。分かったわ」
給仕はしてくれるものの、侍女たちの動きはぎこちない。まるで、付け焼き刃で手順だけを教え込まれたように見えた。
洗面用具が目の前に現れたのは、食事が終わった後だった。
マリアーナはこれまでとは違うその順序を受け入れた。彼女たちに指示を出している人間に会えたら、順番を変えてもらおうと思いつつ。
そんなマリアーナがようやく顔を洗い終わった頃、この部屋にドレスが運び込まれてきた。隣国へ持って行くはずだった花嫁衣装だ。
それは白地に金糸で花の刺繍が施された、国を代表する職人たちが長い時間をかけて仕上げたドレスだった。
驚きはしなかった。あの記憶の中でもそうだったからだ。あの時は、恋していた相手との結婚式で着るはずだったドレスを、このような状況で着るのが悲しかった。
しかし、今はそんな感傷とは無縁だ。
侍女たちは慣れない手つきでマリアーナに化粧をしてくれようとする。しかし、使うべき道具も把握していない様子だ。
マリアーナはこればかりは口を出し、自分ですると彼女たちに告げた。皆ほっとした顔をした。
それを終えるとドレスを着せられる。
髪は自分一人ではどうにもならないので、侍女に任せた。
髪の結い方は、このドレスには似つかわしくないように思えるものだったけれど、ベールを付けるのでその大半は隠れる。だから、それに関しては妥協した。
あまり文句ばかり言って彼女たちの心証を悪くする必要はない。
着替えが終わると護衛だと言う二人の男性が部屋に入ってきた。どちらも見た顔だ。
彼らは軍人らしく右手を左肩に当てながら腰を折る。笑顔の青年はエンシオと、不機嫌が滲み出た表情の男性はマウリと名乗った。
「国王陛下のご命令で、今後は私どもと、他の二名が交代で王妃様の護衛にあたります」
「そう。護衛については聞いているわ」
マリアーナは平静を装いながら、もしかしたら、この人たちが、あの記憶の中で自分を殺した人間かもしれないと思った。緊張に体が強張る。
あの記憶の中では、このお披露目の日の日暮れ時にマリアーナは命を奪われた。
複数名いた襲撃者の声は聞いたが顔は見ていない。
さて、あの声は彼らのものに似たところがあっただろうか。
注意深くドレスの裾をさばきながら、マリアーナは護衛二人に前後を挟まれつつ、ゆっくりと歩いた。
幼い頃から何度も通った回廊を通り、外に大きく張り出したバルコニーに向かう。
これも、あの記憶の中で一度は経験したことだ。
マリアーナが到着すると、その先には何人もの、書類の束を持った官吏に囲まれたアルベルトがいた。
記憶は、この場面に関しては曖昧で、彼はそんなことをしていなかったようにも思うけれど、こちらには目もくれないという意味では以前と同じだった。
何を期待していたのだろうか。あの記憶とは違って、寝室で優しくされたから、彼の態度が変わるとでも思っていたのだろうか。
マリアーナは、そんな調子のいい自分を心の中で笑った。
必要がなくなれば、きっとあの時と同じように殺される。自分はそれだけの存在なのだと、きちんとわきまえなければならない。
やがて時間だと追い払われた官吏たちが去って、初めて彼と目が合った。彼は一瞬目を細めた後、こちらに手を差し出してきた。
マリアーナはおずおずと手袋に包まれた手を彼のものに重ねる。
アルベルトは華美な服装はしていなかった。ただの軍服だ。
マリアーナの装いの華やかさとは、まるで違う。
「とりあえず横で立ってさえいればいい」
「はい」
おもむろにそう言われたマリアーナは前を向いて微笑んだまま答えた。自分に期待されている役割はそれだけだと、よく分かっている。
あの記憶の中のマリアーナは、王家は健在だと知らしめたくて、バルコニーに彼と一緒に立った。
しかし、自分を讃える声が一つもないのに衝撃を受けて、部屋に走り戻ってドレスを脱ぎ捨てた。
あの時の自分は衝撃のあまり、そうするしかなかったのだと思う。でも、今回は覚悟ができている。
彼に続いてバルコニーに出た瞬間、歓声が上がった。
今は捕えられている家族と、このようにバルコニーに立った日を思い出す。
通常、バルコニーの下にいる人々はこんなに多くはなくて、貴族や裕福な平民しか、この広場にはいなかった。入れなかったのだと思う。
しかし今、広場は驚くほど多くの人々に埋め尽くされている。人数だけではなくて、歓声の熱量も違う。
マリアーナはそれに圧倒される。記憶にある通り、群衆はこちらを見ていない。いや、無視をしている。
本来ならば、王妃の名も尊敬を込めて叫ばれるはずだ。家族と並び立った時も、家族全員に声がかけられたものだった。
罵倒がないのは、彼らが新しい国王しか見ていないからだろう。
本当にマリアーナは彼らにとっては、新たな国王の添え物に過ぎないのだと、また思い知る。
以前はその事実に耐えきれなくて、自分の部屋に走り帰った。しかし、今回は、どんなに辛くても彼の横に立ち続けると決めていた。
人々に必要とされていないのだと見せつけられながら、マリアーナは後ろに垂らしているベールの端を空いている方の手で力一杯握っていた。
王妃でい続ける他に、家族や自分を守る方法を持っていないのだから。
その時、マリアーナは目の端に映った物に目を止めた。彼の腰から下がっている短剣に見覚えがあったのだ。
それはマリアーナが彼からもらった物だ。革命の日まで、鞘は部屋の引き出しで保管し、短剣だけを革製の入れ物に入れて足にくくりつけていた。
マリアーナが取り落としたそれは、彼が自分の物にしたらしい。
マリアーナの部屋は隅々まで探られたのだろう。昨夜彼が、マリアーナの元婚約者からの手紙を持っていたくらいだ。きっとその時に鞘も見つけたのだ。
きっと返してはもらえない。マリアーナはそれが少し悲しかった。
◆
マリアーナは窓の外を見ていた。
あの殺された時刻が迫りつつあった。とはいえ、あの時は王都から逃げていたから、五日ほどは日程がずれているはずだ。
ただし、自分が王妃としてお披露目という名の辱めに合った日にそれが起こったのだから、今にもその時が来る可能性はある。
あの記憶の中ではいなかった護衛が部屋の外にいるから、今日はまだ、それは起こらないのかもしれない。
しかし、護衛と言ってもマリアーナの味方ではないので、彼らがそのまま襲撃者になってもおかしくはない。
マリアーナはもう簡単には殺されないと決めていた。怯える様子なんて見せるものか。
もしその時がきても、いかに自分が国王となったアルベルトに忠実か、役に立つのかを聞かせるつもりだ。
彼らが王家の血を必要としているのは確かだから。
太陽は完全に地平の彼方に沈もうとしている。
マリアーナは耳をすませて、何事かが起こる時を待った。
アルベルトはバルコニーでのお披露目が終わると、夜は寝室で待つようにマリアーナに言った。仕事を片付けたら行くからと。
言われなくても、マリアーナはこの部屋以外の居場所を与えられていないので、そうするしかない。
部屋の扉がノックされ、咄嗟に身構える。あれだけ練習した護身術に使う短剣も、今はアルベルトが持っている。
せめて少しでも抵抗するために、マリアーナが近くの燭台を手に取ろうとした時、扉が開いた。
火が灯ったランプを持ったアルベルトが怪訝な顔で入ってくる。薄暗くなっている部屋の中で、彼の周りだけが明るい。
これからどうなるかも分からないのに、マリアーナは「助かった」のだと思った。
「なぜ灯りを消した?」
「いえ、あの、誰もつけにこなくて……」
「侍女たちがか? この部屋に火種は置いていないと知っているはずだがな。外の奴ら……護衛に声を掛けなかったのか?」
「はい。侍女の仕事でしょうし、他の方のお手を煩わせるのもいかがなものかと」
「命じて構わない。まだ王宮は人手が足りていない。忘れられたからといって黙っているのはやめてくれ。何が足りないのか分かった方が助かる」
そう言うアルベルトが、ランプの火を燭台の一つに移し、それを手に部屋中に光を灯していく。
「今度からはそうします」
「ああ」
そこでマリアーナは一つ確認し忘れていたことを思い出した。少し安心したからだろうか。
「侍女長はいるのでしょうか。私はそれすらも知らなくて」
「ああ……。そんなのも、いたんだったな。解雇されたよ。また雇い直されるはずだが、忙しくてそこまでは手がまわっていないんだろう」
彼は「早めに手配させよう。相応しい人物を」と言ってくれた。
マリアーナはその人が、自分の味方になってくれなくてもいいから、以前の宮廷を知る人であったらいいと思った。
隣国へ嫁ぐ時に文化の違いを覚悟していたはずなのに、生まれ育った王宮で、今までと明らかに違う生活をするのは思いの外こたえるのだ。
何にせよ、彼はこの日も寝室に来たわけだ。早く子どもをもうけようとしているのだろう。
マリアーナは、彼といる限りは命を奪われないのだろうという気がした。だから、そばにいてくれるのならば、何をされてもいいという気分になる。
ところが、彼はそのまま眠ろうとしているようで、マリアーナの横に寝転がってはいるものの、触れられはしない。
昨夜、彼を満足させられなくて、子を作る気がなくなってしまったのだろうか。
それでは、彼がこの部屋に来る理由がなくなってしまう。それは、とても困る。
マリアーナは、はしたないと分かりつつも体を起こして彼に聞いた。
「あの、子は作らないのですか?」
「あんた……。マリアーナ。俺は体を気遣ってやっているんだぞ?」
「あ……? え……?」
彼から気遣われる意味が分からない。彼にとってマリアーナは、彼の子を産み、権力を保証するために存在する。
それなのに、彼に強引に引き寄せられ、なぜか全身を包むように抱きしめられる。
驚いて彼の腕の中で身じろぎすると、その広い胸に押さえつけられてしまう。抵抗はしない方がいいのだろう。どうせ力では敵わない。
抱きしめられながら眠るのは、慣れなくて落ち着かない。でも、そこは窮屈だけれども、とても温かかった。
ずっと緊張していた糸が切れたのか、マリアーナは急な眠気に襲われた。
思えば、あの記憶を思い出してから、安心して眠れた日はない。
今日、死ぬかもしれないと半分覚悟していたこの日を、マリアーナは生きて終えようとしている。
(安心したい。今だけでいいから……)
マリアーナはいつしか、その温かい腕の中で眠ってしまった。
だからマリアーナは、アルベルトに冷たいまでの鋭利な表情で観察されているのに気づかなかった。
つづく……




