26.隠し事は愛を語る
マリアーナは、うずくまる彼の名前を呼んだ。
「アルベルト……」
傷を見ていたエンシオが首を振ったのに血の気が引いたけれど、彼から平然とした声で「生きてますよ」と言われて混乱する。
そうだとしても怪我はしているはずだ。刃物で刺されて平気なはずがない。
それなのに、エンシオがうずくまる彼をブーツの先で蹴りながら言う。
「アルベルト、気を抜きすぎだ。しっかりしろよ」
「エンシオ!? なんてことを!」
「だから、大丈夫ですって。この人、運もいいから」
「え……? でも、刺されて……」
エンシオが手と顔を同時に振る。刺されていないと言いたげだ。
冷静に見てみると、確かにアルベルトの周りに血の色は見えない。
取り上げられている伯爵の部下が持っていた刃物にも血はついていない。
マリアーナがアルベルトの頬に触れると、ほんの少しだけ彼は目を開けた。息はしているものの、苦しそうに見える。
「アルベルト、息はできて……?」
「大丈夫だ……。一瞬苦しかっただけで……。何かに当たって……」
彼は上着の中に手を入れて、その何かを取り出した。それが彼の手からすべり落ちて床に転がる。
紙に包まれた四角いものだ。大きく傷がついている。その隙間から見たところ紙の束のようだった。
それを結び止めていた紐が、おそらく彼を攻撃した刃物に切られていたらしく、紙束を包んでいた紙が開く。
そして、マリアーナはそこからこぼれ出たものに目を奪われた。
それは色とりどりの便箋だった。マリアーナの部屋にあるものと同じ……。
「これは……。私との……?」
「ああ……。助けられたな」
まさか毎日彼に書いていた手紙を、アルベルトが紙に包んで懐に入れていたなんて思ってもいなかった。
それには、ざっくりと切れ目が入っているものの、貫通はしていなかった。それが彼を守った。
なぜ彼がこれを持ち歩いているのだろうか。
マリアーナはそれを手に取った。
横では脇腹を押さえつつ上体を起こしたアルベルトが、マウリたちと何か話をしていた。マウリたちは笑っているようだ。
アルベルトは、罪人となった伯爵とその部下、ユリウス王子を引き立てるマウリやエンシオに手を振って、追い払うような仕草をしている。
マリアーナの家族たちがアークラとブラントとルスコ、そして兵士たちに連れられて出て行くのも見えた。
でも、マリアーナはまだ何も言えなかった。
二人きりになったとアルベルトに言われて、マリアーナはようやく言葉を発することができた。
「なんで……。この手紙を……?」
「……おかしいのか?」
彼はなぜかそっぽを向いている。耳が赤いかもしれない。
マリアーナの心臓は変な音を立てている。
おかしいに決まっている。だって、肌身離さず持っているなんて、宝石箱に大切に彼からのそれをしまっている自分と同じか、それ以上の……。
「おかしいです……。これはただの手紙で……。ベランク語の読み書きの練習で……」
「あんたにとっては捨てていい程度の物なんだろうが……」
アルベルトはマリアーナの手からそれを受け取ると、下を向きながら束をいじっている。
整えていたようなのに、なぜか手を滑らせて床に落とす。彼は半分ばらけたそれを慌てて拾い上げた。
「傭兵時代の癖だな。失くしたくない物は肌身離さずに持っていないと……」
「失くしたくない物……?」
彼はまだ下を向きながら、その束を破れのある紙で包み直して上着の中にしまった。
マリアーナは彼の手を取った。そして無言で立ち上がる。胸が張り裂けそうで何も言えなかったのだ。
不思議そうに見上げてきたアルベルトは、片手で床を押しながら立ち上がった。脇腹をさすってはいるものの、動けるようだ。
「歩くと痛みますか?」
「……いや、痛みはもうほとんどない。だが、どこへ……?」
マリアーナが何も言わずに歩き出すと、彼は黙って着いてくる。手を握られているので、そうするしかないのだろう。
マリアーナは彼が苦しそうな顔をしていないか、ときおり確かめながら、その部屋にたどり着いた。
二人の寝室だ。
扉を開けると、国王の登場に驚きながら「ご無事で」「何かあったとお聞きして」とおろおろとしている侍女たちを「もう大丈夫よ」と言って下がらせる。
侍女長のヘンナが、全員を落ち着かせて、きちんとお辞儀をさせてから連れ出していった。
「マリアーナ……? なぜここに?」
珍しく戸惑った顔のアルベルトの手を放して、マリアーナは書き物机に向かった。その一番下の引き出しから、お気に入りの美しい箱を取り出して、彼に渡す。
彼に「開けていいのか?」と確認されながら見られるのに顔が熱くなる。
マリアーナが頷くと彼はそれを開けた。
そして、紙の束を取り出した。彼からもらったものだ。大切で、何度もそれを開いてはその筆跡と言葉をなぞった。
「私は大切な物は持ち歩きません。この箱にしまっています。だから、あなたと同じだと思って……」
「……これでは、まるで俺を想っているかのようだぞ……」
「あなたも同じようになさっていたから……。それでは、あなたも私を想っておられるようだわ」
苦笑したアルベルトが、いつかもそうされたように、マリアーナの額に自分の額をつけてくる。
「何をしているの……?」
「こうしているだけで、あんたが何を考えているか分かればいいのにな」
「こんなことをしなくても分かる方法はあると思いますけど」
彼は額を離すと、顔を赤くしてそっぽを向く。
「あんた以外の女は欲しくない。それは愛しているということらしい。皆がそのようなことを言うから……」
「私もあなたがいいのです。これは愛しているということのようですわね。皆様が言うのなら……」
おかしな状況だった。二人とも何度も閨をともにしている、れっきとした夫婦だ。それなのに「愛している」の一言も満足に伝えられない。
でも、マリアーナはそれでいいと思った。
生まれも育ちも何もかも違って、分かり合えることの方がきっと少ない相手だ。
それなのに、こんなに愛おしい。
恐ろしい記憶もある。それは消えてはいない。
でも今はそれ以上の感情が、あの記憶を優しく包み込んでいる。
マリアーナは手を伸ばして彼の頬に触れた。
アルベルトはゆっくりとかがんで口づけをしてくれる。
それだけで全て満たされた気がした。
見つめ合いながら何度も小さな口づけを繰り返して、その唇の感触を確かめる。
ずっとこうしていたかったけれど、お互いにしなければならないことがある。
マリアーナがそう思った時、部屋の扉がノックされ、侍女長が顔をのぞかせた。
母と妹が湯浴みを拒否、というよりも、見慣れない侍女たちを拒否しているのだという。
「少し話をしてきます」
「ああ。俺も行かないと」
マリアーナとアルベルトはもう一度だけ口づけを交わすと、廊下の反対方向にそれぞれ歩いて行った。
◆
マリアーナがその部屋に入った時、母が侍女たちに出て行くように言う声が聞こえた。
母と妹はソファに腰掛けて、侍女たちを罵っていた。
せっかくヘンナの教育のおかげで表情を出さなくなった彼女たちも我慢の限界だったのだろう。眉を寄せたり視線を外したりしている。
本人たちは気にしている場合ではないのだろうが、母と妹の周りには手入れも着替えもろくにできなかった、その生活が想像できるだけの臭いが漂っている。
それも侍女たちの眉をひそめさせる原因の一つだろう。
マリアーナにも、母の気持ちは分かるのだ。
マリアーナは、あの記憶の中での初夜の前に、自分が今の母と同じような態度をとっていたのを、この光景を見て思い出した。
その出来事は、この三年半ほどの間、すっかり忘れていた。
母は公爵家の出で、王妃となるのを子どもの頃から決められていた人だ。気位は当然高い。気心の知れた侍女以外を拒否するのは当然だ。自分の全てをさらけ出すのだから。
妹も、もちろんマリアーナも同じように教育されてきた。
ただ、マリアーナはあの恐ろしい記憶を思い出した十六歳の頃から、言動を改める必要を自覚していた。
とはいえ、周囲の事情を何も知らずに、侍女長のヘンナに注意を受けたのだけれども。
マリアーナは腰掛ける二人の前に膝をついて、二人の手を握った。
母は、手を握り返しながら言った。その声は心細そうだった。
「マリアーナ。ようやく来てくれたのね。この人たちを下がらせて。私の侍女はどこ?」
「お母様。この王宮はかつての王宮とは違います。そうなるように人が入れ替えられたのです」
「そんな……」
母は泣き出しそうな顔をする。マリアーナはその手を力を込めて握り直した。
「でも、何も変わらないと思って大丈夫です。この者たちはかつての侍女たちに劣りません。任せて問題ないわ。それに……」
マリアーナはヘンナを呼んだ。
「お母様は覚えておられるかしら? 侍女長はヘンナというの。私が小さい頃、お祖母様の侍女をしていたのよ」
ヘンナは深々と頭を下げてから、まっすぐに母を見た。その表情はいつもと同じ無表情だ。でも、それこそが母には親しみのある顔だろう。
楽しいことがあって笑い合うことはあっても、彼女たちはあくまでも使用人に過ぎない。
「あ……。知っているわ……。王太后様のところにいた……。ヘンナという名前なのね?」
「お久しぶりでございます」
母はヘンナをしばらく見つめていた。そして、見違えるほど落ち着いて、自分の時も、妹の時も、必ずヘンナには浴室内にいて欲しいと言った。
「かしこまりました」
「二人をお願いね。ヘンナ」
マリアーナは二人が浴室へ連れて行かれるのを見送った。
頃合いを見計らっていたのだろう。ちょうど一呼吸置いたところで扉が叩かれ、侍女が取り次ぐ。マウリとエンシオが迎えに来たのだと彼女は告げた。
「アルベルトが呼んでいるのかしら」
「はい。王妃様のお父上たちと話をしているから、用事が済んだら来るようにと」
「分かったわ」
マリアーナが次に向かったのは国王の執務室だった。
その扉は開かれていて、扉の前に立つとすぐに父と弟の姿が見えた。
二人はすでに湯浴みをして、おそらくどこかで保管されていたのだろう自分たちの衣装を身につけていた。
こざっぱりとしているけれど、髪は伸びてしまっている。でも、この分なら近いうちに整えてもらえるのだろう。
マリアーナは二人の向かいに座るアルベルトと視線を交わす。
ここは幼い頃から父の執務室だった。でも、現在の父はこの部屋の主人ではない。それに少しだけ違和感を覚える。
アルベルトに向かって「参りました」と言うと、彼の隣の席に来るよう言われ、マリアーナは父と弟の目の前に腰掛けた。
父は穏やかな顔をしていた。そして、マリアーナが微笑みかけると、それを返してくれた。
「前国王には、以前から話してあった。今後の生活についても。旧王家は公爵家として存続を許す。もちろん服従が条件だ」
アルベルトがそう言ったのにマリアーナは納得した。
カンナス伯爵やユリウス王子の話を聞いていた時も、父は、どこかその事態を喜んでいないようだった。それを不思議に思っていたからだ。
弟のガブリエルは知らなかったようで、「よかった」と言って目を擦っている。安心して泣きそうになっているのを誤魔化したのだろう。
マリアーナはもっと彼を安心させてやりたかった。
「命を奪うことは考えておられないのね」
「もちろん。それは何も解決しないと思う。今後国外に追放する大貴族どもが騒ぐだろうしな」
「……国外に追放なさるの?」
マリアーナは、それはこの国にとっては脅威になるのではないかと思った。彼らは国外にも多くの資産を持っている。
父も同じことを思ったようで、眉間に皺を寄せながら、それを指摘する。
「心配には及ばない。それらの財産はほぼ没収できている」
「それは……。この短期間でか……? 父王の代からできずにいたことだ」
「我らにはしがらみがないのでね。そのための革命だった。大勢の人手が必要だったが、奴らの手口は複雑ではなかったから、そう難しくはなかった」
父は「しがらみ……そうだな。方法が分かったところで、私には何もできはしなかっただろう」と悔しそうに下を向く。
あの頃の王家は、大貴族たちに支えられることで成り立っていたからだろう。今ならマリアーナにもそれが分かる。
そして、アルベルトが平民に試験を受けさせて官吏に採用していると言うのを聞いて、父はとても驚いていた。
アルベルトは昔の知り合いから、そういう国が遠くにあるのだと聞いて、その制度を採用したのだと、こともなげに言う。各国を放浪していた傭兵たちから聞いた話なのかも知れない。
そこで、マリアーナの家族たちは、もともとは隠居した元国王や元王妃が暮らすために建てられた、王宮内の館で暮らすことになるとも聞かされた。
アルベルトは、初めからそのつもりだったらしく、館の改装も終わっているそうだ。
「願ってもない話だ」
「それはよかった。用意させた甲斐があるというものだ」
マリアーナは父が国王の地位に未練はないのか不思議に思った。あまりにもその顔が穏やかだったからだ。
そう聞くと、父は「国王のできることなどたかが知れていた。強権を使う能力も私にはなかった」のだと肩を落としたのだった。
それから、仕事が山積みだと言うアルベルトの執務室から出たマリアーナは、父と弟を連れて、母と妹の元に向かった。
もちろん、護衛のマウリとエンシオと、他にも三人の兵士が一緒だった。
元いた部屋に戻ると、二人とも着替えまで終えていて、見慣れた母と妹に戻っていた。
そこで、父から、これからの生活について知らされた母は泣き崩れた。よほど安心したのだと思う。
全員に警護兼監視はつくけれど、王宮内の庭には出られる。以前とほぼ変わらない暮らしが送れると言うことだ。
それから全員で、マリアーナが作っていた花畑に足を運んだ。
整っているわけではない、素人が見よう見まねで作ったものだ。でも、妹も「綺麗ね」と笑ってくれた。
「僕だけは、たまに姉上が花を植えているのを見ていましたよ!」
「ガブリエルが私を持ち上げられないから、私は全然見られなかったわ」
「……! だって、クリスティーナ姉様が重たいから!」
「まあ! 何てことを! あなたの力が弱いのよ!」
二人のやり取りを聞きながら父と母が笑い、マリアーナが二人を止める。
まるであの頃が戻ってきたかのようだった。
その笑顔が見たくて頑張ったのだ。無力な自分を励ましながら、ほんの少しのできることを積み重ねた。
マリアーナは涙が出そうになるのをこらえた。この場に涙は相応しくない。
妹や弟の将来を思わないではないけれど、きっとそれをよりよいものにして行くのだとマリアーナは決めていた。
また、ここから一つ一つ積み重ねて行くのだ。マリアーナのような無力な存在でも、そうしていれば、いつかは希望が見える日がやってくると知ったから。
そこで、いつの間にか隣に来ていた父に「幸せそうでよかった」と言われてしまった。そんなことを言われたら、涙が出てしまう。
マリアーナは指で涙を拭うと、「はい。お父様」と父に笑いかけた。
日が暮れて、エンシオに呆れたように「帰りますよ~」と言われるまで、その花畑でマリアーナは家族と笑い合い、今までできなかった分のおしゃべりをして過ごしたのだった。
つづく……




