19.夫婦の時間
アルベルトはこの日、比較的早い時間に部屋にやってきた。マリアーナはまだ湯浴みを終えたばかりだった。
侍女たちに促されて、本を開いた彼の斜め前に腰掛ける。髪を布で挟んで水分をとってもらいながら、その様子を見つめる。
彼が読んでいるのは先日マリアーナが図書館から借りてきた本だ。ベランク王国各地を旅して回った、我がエイノール王国の貴族が書いた書物だった。
ベランク語で書かれている訳ではないけれど、彼の国の風習や地域ごとの特色がまとめられている。
マリアーナがベランク王国の王子と婚約してからやってきたベランク人の侍女らにこの本を見せたら、とても面白がっていた。自分の出身地域以外の情報は案外知らないものだ。
「面白いでしょう? エイノール王国にもこういった本があってもいいように思うのですけれど。まあ、エイノールはそれほど大きな国ではないですから……」
「いや、この国にも似たような風習や習慣の違いはある。王宮で話されないだけで、各地で言葉に違いもある。……確かにそれをまとめさせるのは面白いかもしれないな」
「ええ!」
マリアーナはそんな本があれば、ぜひ読んでみたいと思った。
「それで? 鍛冶屋がわざわざあんたのところにも顔を出したと聞いたが」
鍛冶屋のニーロは兵士に案内されてマリアーナの花畑へやって来た。彼と会ったのをアルベルトが知らないはずがない。
マリアーナは侍女を下がらせ、自分で髪の水分を拭き取りながら「ええ。あなたがあまりに無理な注文をなさるとお困りの様子でした」とニーロとのおしゃべりの内容を思い出しながら言う。
本当はもっと聞きたいことがあった。なぜ短剣を贈ってくれたのか、と。
「あの男の話を真に受けないでくれ。大袈裟なんだよ、いつも」
アルベルトは「他には?」とこちらを見る。
一瞬、ニーロがくれた小さな刃物を思い出して、誰かに見られていたのだろうかと思ったけれど、それは杞憂だった。
「外国の使節団へのお披露目について話していたと聞いたが」
「ええ。でも、私がお聞きしてもいい話なのか分からなくて」
アルベルトは頷くと、国王が変わったことを周辺国へ周知するために、宴を開くのだと言った。
「挨拶がてら、この国は揺らいでいないだと、各国に見せる必要がある」
「確かにそのようなお話をされていました。でも私には関係がないのでしょう? 今までおっしゃらなかったのだから。そのような宴の準備はずっと以前から行われていたはずですもの」
アルベルトは少しだけ横を向いた。
「あんたを関わらせる気も、出席させる予定もない」
マリアーナは頷いた。他国の要人の前に、何を言い出すか分からない旧王家の人間を出すのは危険だと判断されたのだろう。コクリー男爵などが言いそうなことだと思う。
外国からは、国王が変わっただけで、王家は変わっていないと思われている可能性もあるけれど。
「あんたの元婚約者も来るらしいしな」
「そうなのですね」
ベランク王国のユリウス王子の顔を思い出しながら、マリアーナはなんとも思わずにそう言った。
すると、アルベルトは不思議そうに眉を上げる。
「顔を合わせるのは辛くないのか?」
「いいえ? 一度しかお会いしたことがありませんから、なんとも。私との婚約破棄はエイノール王国の名で、一方的にベランク王国へ押し付けたのでしょう? でしたら、私自身には特に遺恨はお持ちではないでしょうし」
あの記憶を思い出していたマリアーナにとっては、始めから結ばれないと分かっているユリウス王子に思い入れはない。不誠実な人だと知ったからという理由もある。
「……あんな手紙を寄越されていたくらいだから、てっきり……」
「あれは婚約者への儀礼的なお手紙だと思います」
「なぜ、そうと分かる……?」
それは、死ぬ前と後でマリアーナからの手紙の内容が変わったのに、あちらからはほぼ同じ文面が返ってきたからだ。
でもそうとは言えず、マリアーナは「心がこもった感じはしませんでしたから」と少し彼の目から視線を外して言った。
誤魔化そうと思って、マリアーナも彼に聞いた。
「そういえば、あの、以前にあなたからいただいた短剣についてお聞きしたわ。わざわざ作らせて下さっていたなんて……」
「……王女に下手なものは渡せない。あの鍛冶屋の腕の確かさは知っていたし……」
彼から短剣を使った護身術を習っていた時、普段は軍の備品を使っていた。それで足りていると言えば足りていたのだ。それにマリアーナにはいくらでも自分用の短剣を用意する手段があった。
「なんでわざわざ……?」
「お茶に同席した礼が必要だと、カンナス伯爵家の家令に言われた。それで、急いで作らせた」
そうだった。あの恐ろしい記憶を思い出して間もなかったマリアーナは、彼を少しでも知ろうとして、一度だけ、忙しいという彼を半ば無理矢理お茶に付き合わせた。
とはいえ、これと言って話は弾まなかった気がする。
「懐かしい……」
あの頃は思い出したばかりの、彼に犯された時や死に近づいていく記憶が生々しくて、彼が怖かった。
記憶の中と同じように、すぐに殺されるかもしれなくても、一度は彼と夜を共にするのは分かっていた。あまり恐れすぎても不興を買うのではないかと思って、その恐怖心を克服しようと必死だった。
アルベルトは本を閉じて立ち上がると、それを近くにある小さなテーブルに置いた。
「気に入らなかったのでは? 鞘も部屋に置きっぱなしだった。飾りも無かったから無理もないが」
「あら。それは違います。身につけておきたくて。短剣はいつも足首に革製の入れ物とベルトで固定しておりました。鞘は無くさないように、きちんとしまっておいたのですけれど……」
「……毎日、身につけていたのか?」
「ええ。だから、あの日も持っていました。連れ去られずに済んだのは、あれを持っていたからです。練習も欠かさなかったのですよ、先生?」
マリアーナが笑いかけた途端に、怒ったように眉を寄せたアルベルトに腕を引かれ、気づいたらベッドに横たわっていた。
「アルベルト?」
彼は何も答えてはくれなかったけれど、いつも以上に優しく抱いてくれた。
肌が触れ合っていると、お互いの体の温度が混ざり合うようで心地いい。
目の前にある彼の胸に頬をつけると、鼓動が聞こえて安心する。自分の心臓も同じように脈打っているのが分かったから。
そして、その音に眠気が刺激される。
「眠くて……このまま……」
「……寝ろ」
彼にさらに引き寄せられて、その体に全身を覆われると、マリアーナは今までにないくらい、とても大きな安心感に包まれた。
あの恐ろしい記憶が、手の届かない場所まで遠のいていくようだった。
「マリアーナ? 寝たのか?」
意識がなくなる寸前に彼の声が聞こえたけれど、もう返事はできなかった。
つづく……




