10.新たな日常
この日、マリアーナは図書館にいた。
司書のルスコが取り掛かっている、表紙などが壊れてしまった本の修繕作業は技術がなくて手伝えない。
そのため、道具を使いながらそれをするルスコの横で、積み上げられた本に破損がないかを調べている。
無事だった本はワゴンに置き、後でまとめて元の書架に戻しに行く。
もし破損が見つかれば、ルスコのそばに置く。彼はそれが増えるたびに天井を見上げてしばらくブツブツと独り言を言うが、おそらく館長の復帰を願っているのだろう。
図書館の手伝いをしにくるのはこの日が二度目だった。以前一緒に来たマウリとブラントは我関せずといった様子で護衛だけをしていたけれど、この日は違った。
今日はマウリの他に、下級貴族出身だというアークラが護衛として一緒に来ていて、マリアーナと同じ作業をしている。手つきが繊細で、本を大切に扱うのに好感が持てる。
一方のマウリは先日と同じく馬鹿馬鹿しいと言いたげな表情でこちらを見ていた。
ときおり司書のルスコと本についておしゃべりをするのも楽しい。そこにアークラが加わって互いにおすすめの本を教え合う。
アークラの家は没落していたし、蔵書も値の付くものは売り払われてしまってはいたものの、そうではない簡易装丁の本や、誰かご先祖様が癖のある字で写本したものなどは数多く残されていたと言う。
「アークラ殿は本がお好きですか。ぜひ休憩時間には当館をご利用いただきたいですな」
「好きと言うより、金がなさすぎて本を読むしかすることがなかったんだよ。でも、そうだな。長いこと本を読んでいない。久しぶりに読むかな」
「ぜひ、そうなさってください! ついでに国王陛下には、ここの窮状をお伝えくださいよ。王妃様や陛下の側近も駆り出さないといけないくらいだとね!」
アークラは快活に「それはそうだな」と言って笑った。
マリアーナはあの頃がほんの少しだけ戻ってきた気がして、彼らの楽しそうな声を聞きながら、黙々と作業をこなしたのだった。
今日の分の作業を終えて部屋に戻ると、マリアーナは便箋を手に取った。アルベルトへの手紙を書くためだ。
『図書館で手伝いをして、本を借りてきました』
たったそれだけの文面だ。でも、ベランク語の勉強のためのものだから、これくらいがちょうどいいだろう。
アルベルトは辞書も用意させていた。主にマリアーナが使っている書き物机の上にそれが置かれている。執務室にも同じ物を用意してあるのだと言う。
彼がマリアーナが起きている時間に部屋にくれば一緒に発音の確認をする。
先にマリアーナが休む時には枕元にこの手紙を置いておくと、翌朝には彼からの手紙が同じ場所に置かれている。
マリアーナはその距離感を心地よく思うようになっていた。
彼はマリアーナにとっては、けして怒らせてはいけない相手だ。肌を合わせていても、心は互いに明かさない。
そのような関係の彼と一緒にいると、どうしても緊張して疲れてしまうから。
マリアーナはペンを元に戻しながら思った。
本当は妹弟との再会を急かしたかった。『いつ二人に会えますか』と書きかけたのは一度や二度ではない。
彼が「会わせられるかもしれない」と言ってくれてから数日のうちには二人に会えるものと思っていたけれど、きっと手続きだとか、準備だとか、しなければならないことがあるのだろう。
でも、彼が忘れている可能性もあるから、いつかは聞いてみないといけない。
今は我慢の時だ。マリアーナは毎日、自分にそう言い聞かせている。
マリアーナは、書き物机の引き出しの一つを開けた。壁側の一番下の引き出しだ。特に隠さなければいけない物ではないのに、そこを選んだのは、少し気恥ずかしかったからだ。
そこには侍女に言って元の自分の部屋から持って来てもらった、お気に入りの宝石箱が入っている。
当然、中の宝石は全て無くなっていたけれど、遠くの国からやって来たという、外国からの贈り物だったその箱はマリアーナの宝物だ。中の宝石よりもよっぽど大切だった。
光沢のある分厚い貝殻から作られたという、角度を変えると虹色に光る表面の細工が美しい。中央には花が形作られている。
母などは、もっと価値のある宝石で飾られた宝石箱を選べばいいのにと言ったけれど、マリアーナはこの細工が一番気に入ったのだ。
それが手元に戻って来た日は本当に幸せな気分で、ずっとそれを見つめていた。
マリアーナはその箱を開けた。今そこに入っているのは、アルベルトからの手紙だ。捨てるのもおかしいし、空の箱をそのままにしておくのも嫌で、そこにしまうことにした。
一日に一枚だけ増えるそれを取り出す。マリアーナの部屋に置いている色や模様がある便箋と、おそらく執務室にあるのだろう白くて分厚い用紙が混ざり合っている。
一枚ずつめくっていくと、初めてもらった『おはよう』といった挨拶から始まり、少しずつ単語が増えていく。
『暗い。晴れるといい』
『今日は出かける。帰らない』
『くしゃみをしていた。温かくした方がいい』
マリアーナは、ふと笑みを漏らしながら無骨な筆跡をなぞった。
彼はベランク語の日常会話はできる。やや乱暴な言葉を使うけれど、基本的には問題がない。書き言葉や単語の綴りを知らないだけだ。
彼は手紙の中では優しい。普段は笑顔もほとんど見せない彼は、どんな表情でこれを書いたのだろうか。もちろん、これは勉強のためであって、思いついたことを真顔で書いているのだろうけど。
マリアーナはそれらをまた箱にしまうと、しっかりと引き出しを閉めた。
◆
マリアーナが寝支度を済ませた頃、アルベルトが寝室にやって来た。いつもより早く仕事が終わったのだろう。
彼が湯浴みをしに行っている間、書き終わった手紙を横に置きつつ、ソファで本を読む。
彼は戻ってくると、迷わずマリアーナが自分の横に置いていた手紙を手に取り、そこに腰掛けた。
先ほど書いた『図書館で手伝いをして、本を借りてきました』というだけの手紙を真剣に読んでいる。
「この単語は覚えた。図書館、だな。その次は?」
「『手伝い』と発音します。意味は分かりますね?」
「ああ。それをしてから、本を……次は?」
「『借りて』ですね。本を借りてきました」
「なるほど」
「こんなに早く戻られるのなら、もっと難しくて長い文章を書けばよかったわ」
そう言うと、アルベルトが何か言いたげな顔でこちらを見てくる。マリアーナが何事だろうかと首をひねると、手紙を置いた彼に引き寄せられる。
「それでは、こうする時間がなくなってしまうな」
「ぁ……」
優しく両手をつかまれて首筋に口づけられる。
そうだ。マリアーナは彼の子どもを産むためにここにいる。ベランク語を教えるのは、ほんのついでだ。
その行為には慣れたものの、恥ずかしさはなくならない。体をよじりつつ声を耐えていると、ふと彼の手が止まった。
「……伝え忘れるところだった」
「……え?」
「くそっ、先に言うんだったな。いや、済むまで思い出さなければ……」
「……? 何事でしょう?」
マリアーナは、口の中で何か言っている彼を見ていた。アルベルトはその視線に気づいているのかいないのか、窓の方を見やりながら「明日、会わせる。あんたの妹たちに」と言った。
マリアーナはあまりに突然のことに言葉を失った。早くその時が来て欲しいと思いながら、まだ叶わないような気がしていたのだ。
「ありがとうございます……」
「ああ」
マリアーナは本当にうれしかった。
でも、二人のことを考えた途端、彼に肌をなでられるのが、突然後ろめたいものになる。
家族を裏切っているわけではない。無理矢理に犯されているわけでもない。
それなのに、咄嗟に彼の胸を押し返してしまった。
「……どうした?」
「今日は……」
「……そうか……」
彼は「何もしない。寝るぞ」と言うと、ベッドに向かう。
マリアーナは命令されれば、何をされても拒まない。そうしようと決めている。でも彼は、子を作るのを途中でやめた。
横になりながら「申し訳ありません。驚いてしまって」と言い訳めいた言葉をつぶやかずにはいられなかったけれど、彼は「その気がない相手を抱く趣味はない。気にするな」と言ってくれる。
その温もりが恋しくて、おずおずと手を伸ばすと、長い腕が伸びて来て、その腕の中に囲われる。
彼が怒ってはいないのだと思うと、なぜか心が軽くなった。
あの記憶の中では物のように扱われた気がするのに、いったい何が違うのだろうか。
マリアーナは不思議に思いつつも、答えは見つかりそうになかった。
なんにせよ、今はこうして生きているし、明日には妹と弟に会える。それだけで充分ではないか。
マリアーナは固く目を閉じると、やがて眠りに落ちた。
◆
翌朝、マリアーナはアルベルトが部屋を出ていく音で目を覚ました。
カーテンの隙間から光が漏れて、部屋の中に入って来ていた。残されていた手紙に手を伸ばしてそれを読むと『おはよう』の他に、こちらはこの国の言葉で「新しい侍女長が決まったようだ。まだ不便があるのなら彼女に言えばいい」と書かれていた。
彼には昨日、伝えることがたくさんあったらしい。
少し急ぎ気味の筆跡を指でなぞる。
マリアーナは昨夜、行為を拒んだ。それなのに、彼は本当に怒っていないようだ。
マリアーナはそれに、とても安堵したのだった。
つづく……




