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「美雪は、肉体を持っていない。でもせめて心は、肉体を持った人と同じでいたかった。肉体を持った女性は、あんなふうに深呼吸を繰り返されたら恥ずかしくて当たり前だし、文句を言って当たり前。自覚のない俺に腹が立ち『恥ずかしいから教えない』と突っぱねるのも、困る俺に僅かとはいえ留飲を下げるのも、肉体を持った女性なら普通のことだろう。そんな普通のことを、美雪は望んだ。そういう事なんじゃないかな」
もちろんこれは、推測にすぎない。それを忘れてはならないが、仮にこれが正解だった場合、俺はどう行動すれば良いのか? 俺は空を見上げ、太陽の位置を確認する。現在位置と散山脈諸島の時差を大雑把に計算したところ、まだここに30分ほどいれるようだ。俺は深呼吸と簡単な体操をして、今後の行動について考察した。
必死になった甲斐あって、何とかなった。立ち上がり回れ右をして、オリュンポス山に腰を折る。すると今度は明瞭に「ファイト!」と声を掛けてもらった。やはりあの閃きは、オリュンポス山の助力によるものだったらしい。「ありがとうまた来るよ」 友人として挨拶し、俺は散山脈諸島へ瞬間移動した。
それから数時間後。子竜達が宿舎に消えた午後8時。
野郎共に断り、俺はトイレに向かった。
竜族の幼稚園でトイレを使う人族は、実は俺だけ。勇達は輝力分身だし、母さんは肉体のときも摩訶不思議な力によってトイレを免れているからだ。またそれは、俺を安堵させることでもある。トイレと言っても水洗トイレではないしそれどころか建物もないので、輝力で壁を創ったとしても女性にはつらいと思うんだよね。音楽仲間達が肉体で幼稚園に来ることがあったらトイレ飛行車を借りねばならないと、俺は密かに考えている。
用を足しに行く振りをして皆の死角に入るや、光学迷彩を周囲に施し空へ舞い上がる。目指すは、上空に待機しているカレン。カレンのそばに浮き、ある計画を伝え、協力をお願いした。この計画は、勇にもテレパシーで伝えている。俺がトイレから帰ってこなくても、10分程度なら勇が上手く誤魔化してくれるだろう。
カレンから離れ、海岸へ向かう。照明の一切ない夜の海は本来メチャクチャ怖いものだが、四次元視力に切り替えれば屁の河童。調整次第で昼と変わらぬ視界に出来るからだ。ちなみにマイクロ波を捉えられる四次元視力にすると、夜空は明るい空になる。いわゆる、宇宙マイクロ波背景放射ってヤツだね。それも素敵だけど、満天の星空を楽しめる視力に調整し俺は砂浜に座っていた。
そんな俺のいる海岸に、カレンが隠密モードで近づいてくる。人の生活圏で飛行車が隠密モードになるのは、原則禁止。前世の地球で電気走行時のハイブリット車は静かすぎるため機械音を故意に出し、歩行者との接触事故を避けていたのとまあまあ似ているかな。今この島に肉体でいる人族は俺だけだし、法律に触れなかったのだろう。
俺の左隣5メートルほどの砂浜にカレンが着陸する。ドアが開き、カレンを降りた美雪が俺の隣に座った。本当はカレンに送ってもらわずとも、テレパシーで呼びかければ美雪は俺の隣に3D映像で現れることが可能。3D投影機を、俺は常時身に着けているからだ。しかし今夜はカレンに頼み、美雪を連れてきてもらった。美雪が自分の分身をお祭り会場に今も投影しているかは、分からないけどさ。でも、
「美雪、呼び出して悪かった」
俺は美雪に詫びる。首を横に振った美雪は、機嫌がとても良さそうだ。前世の俺が趣味で書いていた学園小説の中に、林間学校を抜け出し満天の星空のもと二人きりの時間を過ごす主人公とヒロインを描いたことがある。「美雪は前世の俺の小説を読んでいるから、それをなぞってみたんだ」と明かしたところ、
「そうだったらいいなって思っていたの」
美雪は俺の腕に額をグリグリこすり付けた。これは美雪が、最高に機嫌良いときにする仕草。よし、掴みは上々だ。俺は美雪に心の丈を伝えた。
先月の深呼吸事件の際、素直になれなかった事情。美雪と美咲が頬ずりする様子に思い出した、子は鎹という前世の言葉。深呼吸事件について数時間前、美咲に教えてもらった美咲の想い。超山脈のオリュンポス山に意識を飛ばし、必死になって考えたこと。それを基に、美雪にわざわざ足を運んでもらいこうして心の丈を伝えたこと。俺はそれらを、赤裸々に打ち明けたのだ。言い換えるとまずは俺が、虎穴に入ったのである。
それが、正しかったのか間違っていたのかは分からない。けど俺には、それしかできなかった。たとえ筒抜けだろうと、美雪には言葉でしっかり伝えなければならない。考えに考えた末、そんな当たり前の極致の結論に至ったのだ。それへ、
「恥ずかしいから言うのは一度きりね」
美雪はそう応えた。俺の視界に映るのは、美雪の髪だけ。しかし40年以上の交流が教えてくれた。美雪は今、幸せな表情をしているのだと。
「翔が深呼吸を始めたとき、ただただ恥ずかしかったの。それが十秒近く続いて、やっと気づいた。私は肉体を持つ普通の女として、恥ずかしがっていたんだって」
生まれて初めてのそれは、美雪をこれまでで一番幸せにした。その幸せに身をゆだねたら、拗ねて俺を困らせる美雪に自然となった。それも嬉しくてならず、すると俺と美雪の二人きりの時間を邪魔せぬよう遠慮していた美咲が自らの判断で現れ、自分の香りについてあっけらかんと訊いた。それに俺と揃ってすっ転びそうになったのも嬉しく、人間の女になる瞬間はもう訪れなかったが、先月のあの出来事は歴代屈指に幸せな思い出として記憶に刻まれている。だからあの日を思い出しても心がポカポカになるだけだし、それに負けないくらい今夜もポカポカになった。カレンに乗ってここに来る手筈を俺が整え、そのとおりにやって来たら、心が弾んで仕方なかったそうなのである。




