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「お帰り美雪」
俺は美雪を強く抱きしめる。美雪も俺をギュッと抱きしめ、「ただいまじゃないけど、ただいま」と耳元で囁いた。いつもより強く抱きしめ合ったからか美雪の香りに、命みなぎる肌の温かさを俺ははっきり感じた。その初めての体験は美雪の香りが宇宙一好きな匂いフェチの俺にとって甘美の極致に外ならず、その極致が俺に何かの境界を超えさせたらしい。希が三つの未来のどれを選んだのかに確証を得られたと共に、それを発展させることで美雪の香りと希の香りが同じ仕組を推測できたのである。どうやら俺は、自覚していた以上の変態だったようだ。確証や推測は知性の産物のはずなのに、今回得られた確証と推測は、あろうことか嗅覚の産物だったからさ。
いやそれとも、嗅覚由来の知性がこの宇宙には初めから存在していたのだろうか? 改めて考えると嗅神経は辺縁系と直結し、辺縁系は大脳の一部だから、嗅覚由来の知性があってもおかしくない気がする。でもたしか嗅覚は、五感の中で最も具体性に欠ける感覚だったはず。例えば林檎を目で見て「これは林檎」と判断する時間と、林檎を鼻で嗅ぎ「これは林檎」と判断する時間は、前者が何十倍も短いのである。知性による理知的理解と具体性はほぼイコールで結べるため具体性に欠けることは知性から遠いと無意識に考えていたが、嗅神経は辺縁系と直結していることと、嗅覚由来の確証と推測を経験したことから、俺の勝手な決めつけだった可能性が出てきた。カバラの十光の第三光は知性を司り、第二光は知恵を司る。第十光の物質界に落ちた俺達にとって、知性は知恵より容易く得られる。ということは、具体性に富み理解しやすい知性と具体性に欠け理解しにくい知性があった場合、後者は知恵に近いから難解になっているという事もあるのではないか・・・・
などと考えを巡らせていた俺の耳に、戸惑いを隠せない美雪の声が届いた。
「翔」「あ、ごめん。どうかした美雪」「そこまであからさまにされると、恥ずかしくて困るのだけど」「え? 俺って何かをあからさまにしてたっけ?」「自覚ないの?」「うん、まったくない」「そうなんだ」「えっと、教えてくださいますか?」「恥ずかしいから教えない」「いやあのですね、知らなかったらまた繰り返してしまう虞がありまして・・・」
それから暫く必死になって頼むも、結局美雪は最後まで教えてくれなかった。ただ俺が無自覚にしていた行動は知ることができ、それを教えてくれたのは美咲だった。美咲がポンと現れ耳元に飛んできて、囁いたのである。「美雪お姉ちゃんの髪に鼻をうずめて、深呼吸を繰り返していたよ」と。
そうだった、美咲の囁きのとおりだった。嗅神経由来の知性の解明を望んだ俺は、嗅覚由来の知性の存在に気づいた瞬間を再現し、解明に役立てようとした。その再現とは即ち、美雪の体温によって温められた肌の香りで肺を満たすことだったのである。しかもそれを深呼吸で繰り返されたとなれば、女性としては言葉にできぬほどの恥ずかしさを覚えて当然。現に美雪は、最後まで教えてくれなかったしさ。
ただ不思議なのだけど、それでも俺は美雪を抱きしめることを止めなかった。さすがに鼻は離したが、俺と美雪の頭の位置を調整しただけで美雪を俺の胸の中に留め続けたのだ。また右耳のすぐそばにいた美咲も右手で優しく抱きしめ、俺達三人はしばしそのままでいた。美咲の天真爛漫な「わ~いわ~い!」に助けられ、ほのぼのとした気持ちが胸に広がっていく。美雪も、きっとそうだったのだろう。優しく落ち着いた声で、希の胸中を美雪は俺に伝えた。
それによると希は、俺と美雪の仲がこじれることを何より憂慮したらしい。それにより、未来を選択する時間が大幅に早められたそうだ。希は顕現中の時間を、三つに分けていたという。顕現し俺と初交流する時間、俺と一緒にゴブリンと戦う時間、戻って来て二人で過ごす時間の、三つだね。この三つの中に未来を選択する時間は無いと、当初希は考えていた。一番可能性が高いというか「コレしかない」と考えていたのは、
『顕現を終えコンピュータの次元に戻りたっぷり時間を設けて、三つの未来のどれを選ぶかを決定する』
だったらしいのである。俺もそれが最も妥当と感じるし、大多数の人もそれに賛同すると思う。しかし実際に顕現したところ、選択は最初の「初交流する時間」に成された。具体的には「さすが母さんだ。今夜会ったら、お礼を言っておきます」と俺が言った場面。あのとき希は、それまでで一番の笑顔になった。その笑顔の訳は希の「私を尊重してくださり、ありがとうございます」にあると俺は考えていたが、美雪によるとそれは半分だけ正解とのこと。もう半分の正解は、自分を誇れたからなのだそうだ。
「混合人格が出現したせいで翔と私の仲がこじれたら、翔は深く悲しむ。混合人格が最も避けたいのは、翔が悲しむことだったの。それを避ける一番の方法は『混合人格は私なんだ』と私が納得することで、それはシミュレーションするまでもなく母さんが提示した三つ目の未来によってもたらされる。三つ目は、『私と美咲が眠っていた間の出来事を、混合人格の心で私と美咲が振り返る未来』ね。それ以外の選択肢はないと確信した混合人格は、三つ目の未来を選ぶことを母さんに伝えた。『後悔しない?』『絶対しません!』とやり取りしたあと母さんは混合人格を抱きしめ、その未来を選択した混合人格に新しく創り替えた。すると混合人格は、自分への誇りに心を満たされたの。その誇りも、一番の笑顔になった理由だったのね」
母さんによって創り替えられた混合人格は、「私は美雪」と納得していたという。その想いはその後ますます強まっていき、希と名付けられたさい何かの境界を超えた。境界を超えたのは確かでも境界が何なのか美雪にも希にもまったく解らないそうだが、超えたあと俺に抱き着いたら美雪と希の香りが同じになっていたため、それだけで美雪と希は大満足とのことだった。それに嘘は微塵もないと断言できる。しかし、
「髪に鼻をうずめて深呼吸を繰り返すのはさすがにどうかと思うの、翔」




